あつめること には2種類ある

何かを熱心に「あつめる」人がいる。コレクターである。

その「あつめる」ことには2種類ある。網羅すること、と、精選することだ。

あるテーマ、団体、人物に関してすべてのものを集め尽くそうとするのが、網羅すること。コンプリートすることだ。

好きなアーティストの音楽を全部買う、好きなキャラクターのグッズをとことん集める、などがそうだ。網羅することには、それを楽しむということの他に、全てを集め尽くすこと自体が目的となる。個々のモノの好き、嫌いは何であれ、全てをコンプリートしたあかつきには、何とも言えない達成感が待っている。

一方で、あるテーマ、団体、人物に関して自分の気に入ったものだけを集めるのが、精選すること。セレクトすることだ。

コンプリートすることの達成感は得られないものの、自分のあまり気に入らないもの、必要ないものを集める必要がなくなる。つまり、自分の好きなものだけが手元に集まる。

私は柳宗悦が好きで、民藝運動に関して柳自身が著したものも、第三者が著したものも、書籍はたくさん持っている。しかしながら、正直なところ、数十万という高値で取り引きされることもある柳の書(墨書のことです)は、バーゲンセールで大安売りされていたとしても、あまり欲しいとは思わない。魯山人もどこかで評したそうだが、私は柳の字を美しいとは思わないからである。

マイリー・サイラスが好きだとしても、一部の曲ばかりを繰り返し聞いていて、他のは一度も通して聞いたことが無い、とか。「あつめる」とは少し違うが。

網羅することと、精選することは、目的が違うのであって、どちらが良いというのはない。しかし私は、精選することの方が好きである。私はそうやって、あつめてきた。

網羅することは、すなわちそれに没入すること、という可能性をはらんでいるのではないか。あることやものが好きでたまらないと、その悪い面が見えづらくなってしまうような気がするのだ。

・・・もちろん、セレクトしようにも全部好きなんだ、という場合も少なくないだろう。つまり「網羅」と「精選」がぴったり一致するとき。そのとき、それはその人にとっての「とっておき」だ。

私にもそういう、ほとんど「全部好き」な書家がいる。私の「とっておき」なので、この場では教えられない。

話を戻して、あることやものの一部は好きだけど一部は好きじゃないという「精選的」スタンスだと、そのことやものに対する批判を受け入れやすくなる感じがする。

柳の字に対する魯山人の批判には、私は全く賛成するが、柳を絶対視する人にとっては、その批判も受け入れがたいものなのかもしれない。実は柳の民藝理論や、現代の民藝運動そのものにも、しばしば矛盾や不備が指摘されるが、民藝運動を客観視できれば、それも認めることができよう。最初から、えり好みしているから。

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