「趣味は書道です、でも見るだけで字は書きません」 「えっ?」

「鑑賞」と名のつく趣味は、映画鑑賞、音楽鑑賞、美術鑑賞あたりだろう。Googleで「趣味 鑑賞」と検索してみて、最初の1ページに出てくるのは、その3つだけだった。

「書の鑑賞」という趣味は聞いたことが無い。

単純に書道をする人口が少ないからだろう。半分正解。いやほぼ正解である。

だが、単に書道人口の少なさだけが理由ではないと思う。「書の鑑賞」が一般でない背景には、人々の意識の問題もあると思う。

西安・書院門街にて 野外での新古書売り

実は書道のコミュニティを見回してみても、鑑賞にそれなりの時間とお金を割いている人はほとんどいない。私の知人の範囲では、全然いない・・・と思う。かくいう私も趣味というほどには徹底していない。学生の頃こそ、一時期は書に関する図録・解説書・資料に毎月数万円を使っていたけれども、今はゼロ円~数千円だ。

ざっくり言って、書を単なる「字を上手に書くための訓練」と思っている人は、書の経験の有無に関わらず、たいへん多い印象を受ける。もしも書くだけでいいなら、多少の初期投資(硯、手本等)をすれば、後は紙、墨、筆といった限られた消耗材にお金をかけるだけでいい。(人によっては月謝、も。)けれどもそれはとても薄っぺらい、もったいない学びだと思う。

多くの人にとっては、小中学校の「書写」の授業が数少ない書道体験だろう。そこでは、現代生活に即した実用的な部分ばかりが強調され、芸術的、歴史的な部分に関しての座学はない。それがあってか、書道とは実践、すなわち「書くこと」だと広く思われている。

しかしながら、書における鑑賞の重要性は強調してもしきれない。なぜならば、(音楽等にも全く同じことが言えるのだが)優れた作品に触れることが自分の創作を刺激し、あるいは純粋に、自身の精神生活を豊かにするからである。

書の腕を鍛えたいならば、書くことに匹敵するくらい「見る」ことにお金と時間をつぎ込むべきだと思う。書くのは好きじゃないけど感動に飢えているのなら、もっぱら「見る」ことに投資したっていい(今のところ私がそうだ)。音楽や芸術と同じく、感情を震えさせてくれるものだから、書いていなくても、見るのが好きならば「書道が趣味だ」と言っていいと思うのだ。

およそ東洋の手書き文字であれば、何でも鑑賞の対象とすべきである。古代中国の青銅器に鋳込まれた文字、現代の書家による作品、浄瑠璃の床本、老舗に掲げられた看板、道端の石碑などなど、多岐にわたる。見るべきものの数はおびただしく、展覧会に足を運んだり、本を買ったり、写真を撮ったり、現物を集めたり・・・、できることはいろいろある。ここ東アジアには、数千年に渡る膨大な文字資料・書作品群があり、そして現在も素晴らしい作品が生み出されている。

余裕があれば、手書きでないもの、東洋以外のもの、文字以外のものにも積極的に触れることで、表現の幅はさらに広がるだろう。日本国内に留まらず、書の本場、中国にも目を配り、ときには自分で中国の地を旅してみれば、新たな世界が開けてくる。

書道において、学習者は必ず臨書というものをする。横に置いた古典作品の法帖を見ながら、半紙や半切にそっくりに書くのである。臨書の際に、古典の一文字一文字、ないしは全体構成を見るのも、もちろん鑑賞の一つだ。しかしながら臨書に使われる作品は、鑑賞の対象全体から見たら、ごく一部に過ぎないのだ。

いろいろなものを見て目が肥えてくると、次第に書の良し悪しが見えてくるようになり、「これはすばらしい」、もしくは「これは見るべきほどのものではない」という判断ができるようになってくる。時に感動的な作品に出会うと、何がこれほどの感動を与えるのだろう、と理解しようとする。そして、その優れた部分を自分の作品にも取り入れてみたくなる。そのインプット、アウトプットの連続によって、腕が磨かれ、表現の幅が広がってくのである。

書は実践半分、鑑賞半分である。

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