2015年4月30日木曜日

竹細工を教えてもらっています

仕事のかたわら、須賀川の竹細工を習い始めて1か月。先生のお宅に今まで3回お邪魔して、竹の割り方と削り方を教わっているが、悪戦苦闘。

ザルやかごを編むための竹ひごを作るには、竹を4等分に割ったあと、皮の部分を幅5ミリ、厚さ1ミリ程度に剥ぐ。その薄く削った皮の部分を細工に使うのである。

先生のおっしゃることが理屈では分かっていても、手が動かない。竹を割るのは一応はできるようになって来ているとしても、削るのが全然だめ。厚すぎるのはまだいいけれど、どうしても薄くなって、途中でちぎれてしまうことが多い。

竹の切れ端で手を切るし、鋭利なナタでも手を切るし、現在、傷だらけの手である。相当の力で竹を押さえつけるもんだから、特に左手の親指は真っ赤になり、その日じゅう知覚過敏のような状態が続く。このごろ、親指の皮が厚くなったのが分かる。指の腹を触ってみた感覚が違うし、触覚も少し鈍った。竹細工用に手が変わってきている。


須賀川の竹細工には、根曲がり竹という、人差し指くらいの細さの竹(学術的にはチシマザサ)を使う。

竹なんて全部同じだと思っていたが、竹割りを習ってみると、種類ごとの性質の違いがまざまざと分かる。

根曲がり竹は、切ってまだ青い状態で割る。繊維に粘りがあって、割るのが難儀だが、途中で折れることもないし、細かい細工もできる。一方、ペットボトルの蓋くらいの太さになる真竹や苦竹は、中途半端な乾燥で割ろうとすると節のところで突っかかって、折れてしまう。しっかり乾燥させれば、パキパキと簡単に割れるのだが、粘りがないので細かい細工は難しい。

種類によって節の形も全然違うし、皮のツヤも違う。根曲がり竹の節はすべらかで、皮のツヤがとてもいい。真竹・苦竹の節は、水墨画で描かれるいわゆる竹節らしい竹節で、またツヤは多少劣る。

根曲がり竹のひご

ホームセンターで買ってきた苦竹(?)のひご

割り方はひと通り教わったので、ホームセンターで50円の竹の棒を買ってきて自習をした。根曲がり竹と違いパキパキと簡単にきれいに割れるので、ペットボトルの蓋の太さのものが16等分になった。割りも削りも、まずまずの出来。これと同じくらい上手に根曲がり竹も割れたらいいんだけど・・・。

2015年4月16日木曜日

長野県小布施の岩松院にて

4月3日、長野県小布施町の岩松院にて、葛飾北斎の天井画「八方睨み鳳凰図」を見に。

歴史のある町では、いい字を見つけることができる。

巨大な円相(?)の左に篆書で「無欠无餘」

入口で見つけた「脚下照顧」

「無欠无餘」は「欠けること無く、余ること無く」。「脚下照顧」は「足元をよく見よ」。ともに禅宗の言葉だそうである。

2015年4月6日月曜日

疑問詞のなかで「なぜ」だけが異質な理由

「なに、どれ、だれ、どこ、いつ、どう」など、いくつかある疑問詞のなかでも、「なぜ」だけは仲間外れな感じがする。

一言で説明するのが難しいのだが、感覚的に言うと、ほかの疑問詞を使った疑問文に比べて「なぜ」で聞かれる疑問文は「答えにくい」のである。例えばの話、

なにを見たいの?
どれを見たいの?
だれを見たいの?
どこで見たいの?
いつ見たいの?
どう見たいの?

と聞かれたら、それぞれ、

ショーを見たい。
「マイ・フレンド・ダッフィー」を見たい。
ダッフィーを見たい。
最前列で見たい。
誕生日に見たい。
食事をしながら見たい。

などと答えればいい。簡単である。しかし、

なぜ見たいの?

と聞かれたら、答えるのに多少頭の中で準備をしなければならないと思う。人によっては、「そんな野暮なことを聞くな」と思ってしまうかもしれない。


本のタイトル

『なぜ◯◯なのか』というタイトルの本は非常に多い。けれども『誰が◯◯なのか』というような本はあまり聞かない。試しに、アマゾンの詳細検索で、本・漫画・雑誌のタイトルに「なぜ のか」や「誰 のか」というキーワードを含むものを検索してみた。結果は以下のようだった。実際に検索キーワードをタイトルに含んでいない本もたくさんヒットするが、ヒット数には何の操作もしていない。そのため大変荒っぽい統計ではあるが、割合を見る目安にはなる。


明らかに、『なぜ◯◯なのか』というタイトルの本が抜きん出て多いことが分かる。

『なぜ、この人と話すと楽になるのか』1

という本は、手にとってみたくもなるが、タイトルをちょっと変えて、

と話すと楽になるのか』
『この人とどこで話すと楽になるのか』
『この人といつ話すと楽になるのか』
『この人とを話すと楽になるのか』
『この人と話すとどうなるのか』

としたら、大した事が書かれてなさそうな気がする。

「なぜ」が、なぜこうも特殊なのかというに、ひとつ言えるのは、聞いていることが違うのである。「なぜ」以外の質問は、ある出来事のある一部分を知りたくて聞いているのである。例えば、「だれ」という問いは出来事の主体や相手を、「どこ」という問いは出来事の場所を、「どう」という問いは出来事の状態や様子を聞いているというのだ。対して、「なぜ」という問いは、その出来事に至った原因や理由を聞いているのである。そこに因果関係が絡んでくるという点で、質問の性質が全く違うのだ。


「なぜ」は答えにくい

「なぜ」という問いに答えるのが難しい分、それに上手く答えることが時として大きな意義を持つ。

苅谷剛彦は、その著書『知的複眼思考法』の中で、ある事柄の「なぜ」を突き詰めることが、ものごとを多面的・批判的に捉えるためには必須のプロセスであると言っている。(本が手許にないので記憶が曖昧であるが。)

カルペッパーの『英語史』には、言語の変化についての「事実」(=なに)を知ることは比較的易しいが、その「理由」(=なぜ)を知ることは難しいとある。

What happened in the history of English is becoming relatively well understood, though there is still much research to be done. Why English changed the way it did and the implications of those changes are much more disputable, because they are less observable.(10頁)
まだ分からないこともあるにせよ、歴史上英語に何が起こったかは比較的明らかにされつつある。だが、なぜ英語がその姿を変えてきたのか、及びその変化の意義については、観測が難しいために、まだ議論が続いている。


言語学的な証拠

疑問詞「なぜ」がこのように異質なのはどうしてなのだろうと、ここ何年か気になっていたのだが、そのことを言語学的に確認する方法を2つひらめいた。簡単に紹介したい。

其の一 「なぜ」で聞かれた疑問文に対する返答には、特定の表現を付けることが要求される。

単純な話である。上で挙げた例でもうお気づきかも知れないが、「なぜ…」と聞かれたら、普通「…から」という答え方をしなければいけない。もちろん場合により、「…ので」や「…なんですよ」などと言うこともある。書き言葉ならば、「なぜならば…」とか「…のである」、「…ため」と書く場合もある。いずれにしろ大事なのは、他の疑問詞に対する返答には何も付けなくてもいいのに対し、「なぜ」のときだけは特定の表現を付け足さなければならないのである。

「どうしてスイカが嫌いなの?」と聞かれたら、「子供のときに食べ過ぎてお腹を壊したんだ」などと答えるのが通常であって、「子供のときに食べ過ぎてお腹を壊した」と答えただけでは、質問に答えたことにならず、会話が成立しない。

私の知る限り、同じことは他の言語にも当てはまる。英語ならば「Why...」に対して「Because...」。中国語なら「为什么...」に対して「因为...」と答える必要がある。「なぜ」が特殊なのは、言語を問わないようだ。

其の二 英語に限った話だが、他の疑問詞(疑問形容詞の働きしか持たない whose を除く)には可能な統語的規則が、疑問詞 why では禁止される。

中学校で習う文法で、「I didn't know what to say(私はなんて言ったらいいのか分からなかった)」といった例文にあるように、いわゆる「疑問詞+to 不定詞」というのがある。それは種々の疑問詞に使えて、

what to do(なにをするか)
which to do(どれをするか)
who to do(だれに/を/とするか)
where to do(どこでするか)
when to do(いつするか)
how to do(どうするか)

が可能である。しかし、

why to do

という表現は普通しないのだ。使っても、非常に稀である。これは why の持つ意味の特殊性に因るのだろう。その「意味の特殊性」とは、具体的には何なのだろうか。今後も考えていきたい。

以上、「なぜ」という語の特殊性とその特異な振る舞いについての所感だったが、これについてはもう誰かが研究している可能性は十分ある。どなたかご存じの方がいましたら、お教え下さい。

――
1 この本は実在するが、内容は知らない。「なぜ」と入力したら入力候補に出てきたから挙げたまで。

参考
苅谷剛彦(1996)『知的複眼思考法』講談社
Culpeper, J. 2005. History of English (2nd ed.). Routledge.