2014年5月28日水曜日

Chromecast発売:テレビCMの「キャストしよう!」の発音について話をしようか

グーグルは、今日5月28日からChromecastなる端末を発売する。公式ブログ上で発表した

Chromecastは、スマホやタブレットなどをリモコンにして、テレビでオンラインコンテンツを楽しめる代物だそうだ。詳しくは、上のリンクの記事を読んで頂ければわかると思う。だが、私はここでChromecastの宣伝をしたいわけではないので、特に読んで分かっていただく必要はない。私が取り上げたいのは、6月7日から放映するという、テレビCMである。

まずはナイーブな心で、つまり下まで読み進めずに、このCMをよーく見てほしい。


CM中の言葉に、何か違和感を持った方はいるだろうか。(このCMに言葉はほとんど使われていないけれども。)もしいるとしたら、あなたは次の4つのうちのどれかだと思う。

1 ご年配の方である
2 アナウンサーである
3 音韻論学者である
4 約束を破って、見る前に続きを読んでしまった

私はこのCMのどこに引っかかったのか。実は、最後の「キャストしよう」の発音が、共通語のそれではないのである。もう一度聞き直して見てほしい。

本来「キャスト」という言葉は、共通語では「ゲスト」などと同じく、「高低低」で発音する[1]。ところが今見たCMでは、「サスケ」などと同じく、「低高高」で発音されていたのである。「キャスト」の元々の発音と違うのである。ちなみに、共通語というのは、あまり厳密な話はしないので、ここでは東京近辺で話される日本語と考えて差し支えない。もしくはアナウンサーの話す日本語と考えてもよい。

たったそれだけか、と失望された方、まだBackSpaceを押すのは早い。実はこれ、日本語で現在進行している発音変化を反映しているのである。

私の発音した2つの「キャスト」。
横軸は時間(秒)、縦軸は周波数(ヘルツ)を表す。
左が「高低低」バージョン、右が「低高高」バージョン。赤線が音の高さを表す。
このように、実際の発音はそんなにきれいに高低は見えないが、違いがあることは分かる。
Praatを使用して作成。

日本語のこの音の高低は、アクセントと呼ばれ、発話において重要な役割を果たしている。例えば「雨」と「飴」は、(少なくとも東京方言では)前者が「高低」、後者が「低高」であることによって区別される。他にも、「箸」と「橋」も全く同じ理由で区別があるし、「コーラ」と「甲羅」も、それぞれ「高低低」と「低高高」のアクセントで聞き分けることができる。(発話には文字情報がないことに注意。)それぞれの組は、音の「配列」(たとえばame)は同じだけれども、「高さ」のパターンが異なるのである。

このような高さ低さの連なりは、日本語のどの語にもあり、語によって決まっている。「キャスト」の場合は、「高低低」がデフォルトである。

しかし、先のCMでは、このデフォルトが破られ、「低高高」で発音されていた。なぜだろうか。実はこれ、日本語で現在進行中の、専門的には「アクセント平板化」とか「無アクセント化」と呼ばれる変化の、一つの結果であるのだ。

アクセント平板化とは、もともと他のアクセント型を持つ語が、最初の音だけ「低」で、あとはすべて「高」になる現象のことである。「キャスト」を例に取ると、平板化によって「キャ」は低く、「スト」は高くなった。(なぜそのようなアクセントパターンが「平板」と呼ばれるかについては、更に専門的な解説が必要なので割愛する。単に「アクセントの変化が起こっている」と考えて下さい。)

アクセント平板化が起こっている語は多く、他にも「彼氏」、「彼女」、「ゼミ」、「ドラマ」、「メディア」などは、かなり普及していると感じる。私が聞いた珍しい例だと、「メタノール」や、「全開」と同じ発音の「前回」がある。

「いいえ私はそうは言わない」という方もいると思う。私も、平板型の「彼氏・彼女」は言わない。友達にこのことを話すと、そういう発音は「ギャルっぽい」とか「チャラい」という声をよく聞く。方言による違いもあるので、この話がピンと来ない方もいるはずだ。また、先ほど、ご年配の方なら「キャストしよう」の発音に違和感を持つかもしれない、と書いたが、平板化は比較的新しい変化であり、ある程度ご高齢の方は、本来のアクセントを保っていることが多い。

「メディア(低高高)!? 私はそんな発音はしない」とお思いの方もいよう。だが、変化は着実に進行している。あのインスタントメッセンジャーアプリ「LINE」を、どう発音しているだろうか。私が常日ごろ聞く限り、平板化「低高高」以外のアクセントで言っている人に、お目にかかったことがない。老若男女(多分アナウンサーも含めて)、100%平板化していると言って過言ではない。

「LINE(低高高)」が一気に受け入れられたのは、3つの理由が考えられる。(1)「LINE」は製品名であり、規範とすべき元々のアクセントというものが存在しなかった。(それゆえに、厳密には、変化とは言えない。)(2)「線」という意味の一般名詞としての外来語「ライン(高低低)」との混同を(おそらく無意識的に)避けた。(3)そして「アクセント平板化」というトレンドが、最後の後押しをした。

例のCM中の「キャスト」も、平板化アクセントである。それをテレビCMで公に放映するということは、それだけ平板化の潮流が強いということであろうか。これも「LINE」のケースと同じで、一般名詞としての「キャスト(配役という意味)」は、今までもよく使われていたけれども、「キャストする」という動詞で使われることは一般にはなく、またこの場合、単純に「配役する」という意味でもない。そうした理由で、差別化を図るために、「低高高」となった、という予測が立てられよう。

さて、言語学を学んだ者として一応触れておきたいのだが、私はこのアクセント変化を、「言語の乱れ」といった観点で見ているのではない。「平板化」というと、「単調」というイメージがあり、聞こえがよくないので、この変化に対して悪いイメージを植え付けてしまわないかと心配しているが、私はみなさんに危機感を持っていただきたくて記事を書いてはいない。

そもそも、平板型アクセントが増えているということは、いくつかあるアクセント型が、平板型一つに収斂してくということであり、乱れどころか、単純化なのである。(あまりフォローになっていないか・・・。)

ともあれ、あくまで変化を観察するというのが、言語学的な立場なのである。私がこのCMを紹介したのは、したり顔で「乱れ」を告発したいがためではなく、「あ、また見つけた」という発見の喜びと、言語学(ここでは特に音韻論)の楽しさを一人でも多くの人に知って欲しかったためである。

もちろん、音韻論の目ではなく、私個人の主観が全く無いといえば、嘘になる。古代の日本語は、今より更にアクセント型が多かったということが分かっている。アクセントの消失は、ここ数十年の話ではなく、日本語の歴史上続いてきた、一つの大きな流れなのである。だから現在の変化によって、またもやアクセントのバリエーションが少なくなると思うと、寂しさを感じないでもない。

平板型アクセントが今後ますます市民権を得ていくことは、時間の問題であることは確かである。

[1] 日本放送協会放送文化研究所(1998)『NHK日本語発音アクセント辞典』日本放送出版協会

2014年5月25日日曜日

谷崎潤一郎「陰翳礼讃」

もう何週間か前のことになるが、谷崎潤一郎の随筆「陰翳礼讃」を読んだ。このごろは本を読んでも、紹介するほどでもないと思ったらブログに書かないできたのだが、「陰翳礼讃」は、備忘録と銘打った本ブログに、やはり書き残しておきたいと思った。

本題に入る前に一つ断っておくと、このブログでも何度か触れた記憶があるのだが、私には文学的美しさがいまいち理解できないのだ。書き手の編み出した言の葉の妙に、魂を揺さぶられたというような経験がないのである。

綺麗な文章というのなら分かる。句読法を守ることから始まって、適切な言葉遣い、文法的正しさ、適度な文の長さ、論理性などは、私も判断できる。また、巧い文章というのも分かる。ユーモアがあったり、説得力があったり、教養を感じさせ、比喩なども巧みに使ってストーリーを展開する文章は、私の思う巧い文章である。だが、それから一歩進んで、美しい文章となると、私には想像しがたい。

この美的感動の欠如は、第一にはインプットの貧困があるのであろう。私はそれほど本を読むほうではないし、有名どころの文学はもっと読まない。もしシェイクスピアやドストエフスキーを読んだならば、私も開眼するかもしれない。第二には、私には文学への感受性が生まれつき備わっていないのかもしれない。大学のある文学の先生のように、和歌を読んで涙を流すというのが、私の理解を超えているのである。その先生と私とは、別の種類の人間なのだとさえ思ったことしばしばであった。

でも安心。後者は誤りであることが実証された。「陰翳礼讃」は、今まで読んだ文章の中でおそらく初めて、私に美しい文章の何たるかを少し分からせてくれた気がする。読んでいて、内に何か沸き立つものを感じた。心奮い立たされたと言っていいかもしれない。文章を読んで、初めて「ああ」という感嘆の境地に達した。私にも、こうした文章に心打たれるだけの器がやっと出来上がってきたということなのかもしれない。

これは内容自体が美に関するものだからというのもある。つまり「陰翳礼讃」の美しさは、表現に負うところ半分、内容に負うところ半分ということである。考えてみればまあそれも道理で、文章自体が良質でも中身がつまらなければ、美しさは無いであろう。逆もまた然りである。

「陰翳礼讃」は話題が転々と変わる。その中でも、私が特に強く印象づけられたのは、薄暗がりにおける漆器の演出効果についての部分だった。その視覚的描写には、何度読んでも気持の昂ぶりを感じる。谷崎潤一郎の感動がありありと伝わってくる。そして読者である私にも、その感動をいつか体験したいと思わせる。

事実、この漆器に関わる部分は「陰翳礼讃」の中でも山場のひとつである。この文章は昭和8年から9年にかけて雑誌『経済往来』に掲載された。後世の日本人はもちろん、翻訳もされていて、世界にも影響を与え続けている文章である。私の読んだ中央公論社の全集(1968年)で40ページ程度だから、ひるまずに読んでみてほしい。

さて、いま「山場」という言葉を使ったが、山があれば谷もあるわけで、批判的に読書することを大学で刷り込まれた者としても、この文章を、片言隻語隅から隅まで諸手を挙げて称揚するわけにはいかない。雑誌の誌面の都合のために多少文章を嵩増ししなければならなかったのであろうか、最後でなぜか「柿の葉鮨」の話題が唐突に出てきて、せっかくの雰囲気が台無しである。いやそれだけではない。後ろに行くほど、文章に冴えがなくなってくる気がする。詳しく書いて先入観を植え付けてもいけないので、後は個人の判断にお任せしたい。

2014年5月24日土曜日

臨「石鼓文」第一鼓

今週、大学で華道部と合同で展覧会をした。春の合同展は3回目である。書道部からは3名、華道部からも4、5名のみの小規模の展覧会だった。

私は、ここ数か月書き続けていた「石鼓文」の、十鼓のうち第一鼓を臨書して出した。表装も何もあったものではないが、そこは目をつぶっていただきたい。

紀元前4世紀に制作されたと言われている石刻文字である。篆書(てんしょ)という書体、秦の始皇帝が小篆を定める前の文字である。




吾車既工、吾馬既同。吾車既好、吾馬既(馬へんに缶)。
(吾が車は既に工にして、吾が馬は既に同じ。吾が車は既に好く、吾が馬は既にフなり。)

で始まる文章だが、それより数百年遡るとされる『詩経』の小雅篇車攻に、よく似た一節がある[1]

我車既攻。我馬既同。四牡龐龐。駕言徂東。
(我が車は既に攻にして。我が馬は既に同じ。四牡は龐龐として。駕してここに東に徂くと。)

車攻の全文を読むと、他の箇所でも似た語が使われていることがわかる。「石鼓文」は作者、時代、目的、それに文字自体の解釈など不明な点が多いが、この詩を下敷きにしていることは間違いない。『詩経』(周代)の歌が、「石鼓文」(戦国時代)のときまで伝わっていたということであろう。このような文献学的発見はとても面白い。

[1] 杉村勇造(1974)『中国書道史』淡交社(15-16ページ)

2014年5月18日日曜日

東京蚤の市 2014春 印判と竹籠を買う

昨日と今日(17、18日)の2日間、調布市の競輪場で「東京蚤の市」が開催された。今年もつい行ってしまったのでご報告したい。

今日の戦利品。

東京蚤の市」は年2回、調布市の京王閣という競輪場で開かれる。蚤の市と言うけれども、売っているものは主に小道具、骨董、古本、雑貨なので、いわば骨董市みたいなものである。ただしこのイベントのターゲットが若い男女(特に女性)である点で、普通の骨董市とは違う。ウェブサイトのデザインなどをはじめ、商品の雑貨もかわいいものが多い。実際、学生から40代までくらいの女性が多かった。

私は、この蚤の市は去年の5月に引き続き2回目だ。今月はちょっとお金を使いすぎているので、今回は我慢しようと思ったのだが、サイトを見たら、やっぱり行きたくなってしまった。会場は私のアパートからは自転車で行ける距離で、入場料は400円である。

ものすごく混むことは去年の経験から知っていたが、日曜日の午前10時40分ころに着いてみると、2、300メートルの行列ができていた。11時の開場後は、会場はごった返す。古道具というと、おじさんやおじいさんのイメージだが、今や若い人にも人気なんだなということを実感する。

去年の撮影ですが、今日もこんな感じでした。

サイトを見て何が欲しくなってしまったかというと、食器が欲しくなってしまったのだ。特に、印判の器が欲しくなってしまったのだ。印判とは、白地に青の模様を転写した磁器のことで、我が大学の初代学長、湯浅八郎も収集していた代物なんである。(大学内の博物館で見ることができる。)私は、清らかな白と深い青のコントラスト鮮やかなその器を、写真で眺めるのではなく、自分の食卓に登場させたくなってしまったのである。ああ、また物欲に負けてしまった。

財布を確かめると、1000円札が4枚と少々の小銭。これなら少なすぎず、また買いすぎることもあるまいと、5月の陽気の中自転車を走らせたのである。

興味が変わると、見えてくるものも変わる。去年は活版印刷に特に興味を持って行ったけれども、全体をくまなく見回したので、買ったものは「ももせこうへい」という活版の名刺のほか、古本2冊、古い物指し、マグカップと、まとまりがなかった。

去年買ったものの中でも、この2つにはとてもお世話になっている。

一方、今日は目当てをはっきり決めていたので、陶磁器を中心に、ついでに漆器や竹工にも目を光らせていた。それだけ見ていても、素晴らしい品物が多くて楽しい。(でも我慢。)

印判は、手のひらサイズのものでも500円はするし、大きくて欠けもなく、模様も立派なのになると4、5000円はざらであった。私は考える。使い勝手のよい4寸(1寸=3cm)程度の皿を1、2枚買うこともできようが、そういうものはいっそ5枚くらい揃えて買ったほうがよい。家族や知人との集まりで使えるからだ。(模様が同じのが何枚も売られているということは、前の持ち主がまとめて所有していたということである。)予算からするとそれは不可能だし、この先数年私が大層な食事会を催す見込みもない。よって、5、6寸の中くらいの1枚物を、1つ買うのが適当だと結論した。

会場中の印判を吟味した末、wakkaというお店の5寸皿(800円)を買った。いつぐらいのものかと聞いたら、明治くらいとのことだった。すごく古い。模様は、中心がおそらく松竹梅。その周りが、青海波に鶴と、松に鶴という、おめでたいものである。


印判はこれで満足なので、もう一つくらい買いたい。会場を物色していて、数はごくわずかだが、古い竹工(ざるやかご)を意外と安く売っていることに気づいた。直径40cmほどもある、数十年は使い込まれて内側がつやつやと光るかごを買った。作りも丈夫そうだ。4、5000円してもおかしくないが、2000円だったので、いい買い物だ。

11時の会場から1時間半、今回は、よく見るものとざっと目を通すだけの物をはっきり分けたので、疲れなかった。求めたのは2点のみだったが、どちらも大変好い品である。素晴らしい道具として役目を果たしてくれそうだ。

2014年5月10日土曜日

このブログ、だんだん知られてきています

私はTwitterアカウントを持っていないのだが、Twitterにアクセスして何気なくこのブログの名前「beborrock」を検索してみたら、こんなツイートがあった。つぶやきの主は、プロフィールを見るに、私と同学年のICU生だ。



なんと光栄なことでございましょうか。ICUにまつわるクオリティが高いSNSに、私めの個人のブログも選んで頂いている。あなうれし。よろこばし。

つぶやきの日付を見ると4月上旬なので、ちょうどこのブログのエイプリルフール記事が当たった頃だ。4月1日の午前に、私は「タッチパネルの使いすぎで指が磨り減った」というウソ記事、同日夜には「ICU生から任意に選んだ2人がFacebookの『友達』または『友達の友達』である確率」に関するウソ記事を書いた。実は後者の記事は、FacebookやTwitterでちょっと流行ったらしく、4月の上旬だけで500人以上が来てくれている。5月10日現在、その記事は本ブログで5番目にアクセスを稼いだ記事になっている。

ここまで読むと、beborrockはそんなに有名なブログなのか、と勘違いする方もいるかもしれないので告白すると、全体的に言って訪問者は全くもって少ない。エイプリルフールの記事はたまたま大当たりしただけで、普段は、公開して10日くらい経った記事の訪問者数は、30あればいいほうだ。もう何年も続けているのに、一向にアクセスは増えない。書く内容が雑多なのがいけないのかもしれない。

それでも、私もたまにFacebookでブログの宣伝をしているので、読んでくれている友達先輩も数人知っているし、初対面のICU生からブログ読んでいますと言われたことも2度あるし、ブログを読んだのかオンラインで接触してきた方もいる(Facebookメッセージとかで)。つまり、ICUでのこのブログの知名度を、最近ようやく実感できるようになってきたのも事実である。

周りの反応があると、書く意欲は俄然増す。私も知人のブログのイイと思った記事には、数は少ないがコメントをして応援してきた。

――――
ICUに詳しくない方のために、上でつぶやかれているそれぞれのサイトを紹介しておく。

黄河砂(こうかしゃ=演劇サークル)のHP
映画部のHP
Texan in Tokyo(これは私も知らなかった)
エヴィアン(@icudestroyer)はICUの征服を企む悪役。機動礼拝シーベリー(@icu_hero_)はICUを守る正義のヒーロー。
森本あんり先生のHP
SHIOK LONDON!(ここも知らなかった)
昔のICU祭のHPがどれほど昔のものなのかは不明。

私もひとつ加えさせて頂くと、石田由香理さん(2つ上の先輩)のブログは読んでいて毎度ワクワクする。

2014年5月6日火曜日

『知的複眼思考法』をICU生に捧ぐ 批判的思考とは?

ICUに入学すると、クリティカル・シンキングという言葉を何度も何度も聞くことになる。クリティカル・シンキングとは、批判的思考、つまり物事を紋切り型ではなく、多面的に捉える、情報を鵜呑みにせず、客観的に判断する、といった意味である。新入生は、英語の授業でいくつかのテキストを読んだり、講義を聞いたり、小論文を書いたりしながら、批判的思考を身につけていく。

中でも、入学直後の第1学期に読んだJ. Meilandの「College Thinking」という本では、高校の学びと大学の学びとの違いから始まって、大学で学ぶとはどういうことかが述べられている。新入生は1学期間かけてそのうちの数章を読み込み、批判的思考の基礎を養う。

ただ、批判的思考批判的思考と、学生も先生も事あるごとに繰り返すが、実際のところ、その意味するところが曖昧なのは否めない。いや、言葉の意味は知っていても、それならば何をすることが批判的思考と言えるのか、という実践的なことは、少なくとも明示的・体系的には学んでこなかった。

昨日読み終えた『知的複眼思考法』では、批判的に考えるとはどういうことなのかを、実践的かつ体系的に解説している。

苅谷剛彦(1996)『知的複眼思考法』講談社
知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ (講談社プラスアルファ文庫) [文庫] / 苅谷 剛彦 (著); 講談社 (刊)

筆者は、常識で物事を割り切る凝り固まった思考、すなわち「単眼思考」に対して、問題を相対化し、その多面性に気づく思考を「複眼思考」と名づけている。この複眼思考が、ICUの言う批判的思考に対応する。

本書は、ICUの目指す学びと軌を一にしている。理由は2つ。(1)私たちが入学直後に読んだあのMeilandと、全く同じことを言っているのだ。Meilandのごく最初の方では、大学の授業で学んだ個々の知識は忘れても構わない、大事なのは、そこで考え方を学んだかどうかだ、ということが繰り返し述べられている。本書でも、著者のアメリカでの大学院時代を振り返って、予習に読まされた膨大な文献の内容は忘れてしまったにもかかわらず、「考える力――あるいは、考え方のさまざまなパターンを身につけた(37ページ)」と明かしている。そしてもう一つの何よりの証拠、(2)ICU図書館で借りた本書は、かなりボロボロであった。

けれども、本書がMeilandより優れているのは、日本語で書かれtその具体性である。第1章では、批判的な読み方(著者と対等な立場に立つ)。第2章では、批判的な書き方(議論のしかた)。第3章では、問いの立て方(「なぜ」の重要性)。そして第4章では、まとめとして、複眼的な思考のしかたを紹介する。それぞれのステップについて、明確に、そして多くの具体例を用いて説明しているため、応用が容易なのである。

本書の読者は大学生を想定しているだろうが、大学のみならず、ビジネスにも必須のスキルが詰まっている。