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柳宗悦『柳宗悦コレクション2 もの』

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柳宗悦(2011)『柳宗悦コレクション2 もの』筑摩書房 読んだのはもう2か月くらい前、7月はじめのことだが、書き留めておかないとやはり記憶の中に埋没してしまうし、おすすめの本でもあるので、簡単に書いておく。 ごく最近に出た、柳宗悦の論考集3冊シリーズのうちの1つだ。柳宗悦の著作は膨大で、有名なものならば文庫で簡単に読むことができるが、その他の文章は大きな図書館で全集に当たるか、古本屋を探さねばならない。本書に収められた34の文章のうちには、他の文庫では読むことができないものが多い。 内容の多くはさすがに記憶が薄れてしまっているが、ひとつ今でも覚えているものがある。読んだときは、柳宗悦がまさしく私の考えていたことを代弁してくれたことに嬉しくなり、そしてまた自信を得た。「『見ること』と『知ること』」というタイトルで、本書で10ページ程度の小編だ。 いくら知識を得て、言葉を尽くして書き表わしても、直感で見ない限りは、美の本質には迫れないという話。 美は一種の神秘であるとも云える。だから之を充分に知で説き尽くすことは出来ないのであろう。(280ページ)  一枚の絵の解説を、かかる美学者や美術史家が書くとしよう。若し彼が直観の人でなかったとすると、直ちに彼の解説に一つの顕著な傾向が現れてくる。第一彼は彼の前にある一幅の絵を必ず或る画系に入れて解説する。或る流派の作に納めないと、彼は不安なのである。絵はきれいに説明のつくものでなければならない。(中略)彼の文章はここでいつも或る特色を帯びる。例外なく私達が逢着する事柄は、彼がその絵の美しさを現すために、如何に形容詞に苦心するかにある。言葉は屡々大げさであり、又字句は異常であり珍奇でさえある。而もその言葉数が極めて多量である。彼は形容詞の堆積なくして美を暗示することができない。(281-2ページ) 難しいことではない。別に美学者や美術史家でなくとも、何か抜群に美しいものに出会ったとき、もしくは素晴らしい文章に出会ったときでもいい、それがどんな言葉の表現も適切でないと感じた経験は、誰しも持つのではないだろうか。どんな形容詞もぴったり来ず、どんな美辞麗句を連ねても自分の中の感動を完璧に言い表すことはできないというもどかしい経験だ。 そういう目が醒めるような感動は、私は1年のうちにも片手で数えるく

日本と中国、日常の書字の違い

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荒川清秀(2014)『中国語を歩く―辞書と街角の考現学<パート2>』東方書店 これは大学図書館の新着図書の棚で見つけた本だ。 愛知大学教授にして、NHK「テレビで中国語」の元講師である著者の、主に中国語の語彙論に関する著作だ。中国で「水」を下さいというとお湯が出てくる、「通路側の席」の中国語は何というのか、簡体字「宫」の口と口の間に点がない理由、など、身近なところから日中の漢字、漢語の違いを取り扱う。著者の、複数の漢語辞典を徹底して調べる姿勢と、認知言語学などへの深い造詣がにじみ出ており、学術的にも信頼の置ける内容である。 だが私は本書の本筋と関係がないあるところが深く印象に残った。日中の書字に関する教育の違いについて、ほんの少しだけ触れていた。私の備忘録も兼ねて、以下ではそのことを書き留めておこうと思う。下は、著者が中国からの研修生の李さんから聞いた話である。  李さんの話で、もう一つ我彼の違いを考えさせられたのは、  (2)中国人は小学校高学年になると「行書」を書く練習をする という点だ。「行書」は、「草書」ではくずれすぎ、「楷書」ではきちんとしすぎという、その中間をとった字体で、楷書よりも早く〔ママ〕書ける。なにより、かれらは行書に大人の字体を見ているのである。だから、李さんは最初、日本人の大人の字を見て「子どもっぽい」と思ったそうだ。わたしたちは学校教育では楷書を習うだけで、書道塾に通わない限り行書などとは縁が遠い。だから、日本人の大人はほとんど楷書、あるいはそれをいくぶん自己流に崩した字体しか書けない。(14ページ) 日本人、少なくとも私と同年代以下の世代、そして私よりある程度年齢が上の方も少なからず、その書く字は、楷書に偏っていると思う。一画一画を大事にしようと考えるのだろう。筆画の省略や連続があまりない。普段の硬筆の文字で、上手な楷書を書く人はいても、それなりの行書を書く人となると、私はめったに見ない。まれにいても、50代、60代だったりするので、若い人ではとても少ない。 たしかに書写や書道の授業で、毛筆で(場合によっては硬筆でも)行書をやるが、あくまで楷書が主である上にコマ数は少ないので、全然身につかない。漢字テストは楷書で書かなければいけないという習慣も影響しているのだろう。結果、速書きしたいときにも筆画と筆画をつ

柳田國男「遠野物語」など

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柳田國男(1973)『遠野物語』新潮文庫 先日は宮本常一を読んだが(7月27日の記事)、民俗学ならば柳田國男の「遠野物語」を読まずにはいられないだろう。 そのときの記事で、文語体の「遠野物語」より宮本常一の方がおすすめだと書いてしまったことを、まずお詫び申し上げたい。実はそのとき、「遠野物語」を読んだことがなく、文体だけを見て勝手に比較してしまったのである。一応情報を発信する者として、読んでくださる方に対して大変恥ずかしいことをしてしまった。そして何より柳田國男に対してもまことに礼を失した発言であったと、読み始めて後悔した。 それほどに面白かったのである。全く、「面白い」以外の形容詞がすぐに飛び出てこないのが悲しい。しかし、読み始めてすぐ、近くにいたバイトの知り合いの方に「遠野物語面白いです」と声に出して言ってしまうほどに興奮したのである。 私にとって「面白い」本というのは、基本的に、学術的であれ啓蒙的であれ何であれ、知ることが多いものである。つまり「遠野物語」は、私にとって新たに知ることが満載だったのである。 岩手県遠野地方に言い伝えられる河童や神隠し、山女、今も続く民間信仰、年中行事などが、1つ数行で語られる。それが100あまり集められている。人々の口伝いに受け継がれ、今までまともに取り上げられることのなかった精神世界。科学が発達する以前の、人知の及ばない存在を本気で信じる世界は、20世紀の、それに日本での記録だとしても、現代の私達からすればまったく異質の文化だと感じた。いかに近代化が急速に進んだかがよく分かる。もちろん遠野が特別なのではなく、さらに遡れば日本全体に同様の民俗があったのである。 侮蔑的に聞こえてしまうかもしれないが、そうした前近代の精神世界は、無知蒙昧の世界と言える。科学の普及する前の、知識の欠如という意味での「無知」、超自然的な、一般の人間の知り得ない何かが、どこかに潜んでいるという意味での「蒙昧」である。すべての現象がすっきり説明されることのない、曖昧な、暗い部分が残ってしまう世界である。それが、柳田國男の鮮やかな、飾らない文章から、生々しく伝わってくる。 文語文ではあるが、極めて平易な文語文である。文語というと、「源氏物語」のような古典文学を想像してしまうが、ややこしい助動詞の解読もないし、主語の省略とかもない