ちくま日本文学『宮本常一』

前回の『民芸の心』に続き、最近出会った文章を紹介。

宮本常一(2008)『宮本常一 ちくま日本文学022』筑摩書房


なるほど民俗学は面白い。

宮本常一(1907-1981)は、全国の農村、漁村をくまなく渡り歩き、その地の歴史、芸能、農業漁業、昔話などを調査して回った。『遠野物語』で有名な柳田國男と並んで、その後の民俗学の礎を築いた。

本書は「ちくま日本文学」のシリーズの一つだが、収録の文章はどれも宮本が全国を回って集めた実録である。しかし、読んでいてすっと染み込む文章は、彼の一方ならぬ文学的素養を感じさせる。人々の民俗の実際の記録であるにもかかわらず、これもまた『民芸の心』と同じく、豊かな物語であるのだ。

私のように、近代以前の日本の姿を知りたいという方、舗装された道路はおろか時計もない頃の日本を知りたいという方には、文語体の『遠野物語』より、宮本常一をまずおすすめしたい。

13ある文章の中でも私が特に印象に残ったのは、「対馬にて」、「女の世間」、「すばらしい食べ方」、「子供の世界」だ。長旅も容易ではなかった昭和中頃までの時代、僻地の人々は、狭い世界に閉じ込められながらも、その生活のあらゆる側面が有機的に結びついていた。

今の時代が別に有機的でないと言いたいわけではない。でも一昔前に比べて、生活のサイクルは崩れていると言ってよいし、人と人との紐帯の強さは確実に弱まっている。一つ例を挙げる。

今はちょうど夏祭りの時期である。夏祭りの定番といえば、盆踊りであるが、数十年より以前と現在とでは盆踊りの性格は随分と違う。現代の盆踊りといえば、宗教的意味はほとんどなく、大方のところアミューズメントである。踊りたい人が踊りに行けばいいのであって、結果、私のように地元の盆踊りを踊れない人も普通である。

しかし、共同体の紐帯がずっと強かった時代、盆踊りは集落を挙げてのハレ舞台だった。そこで踊るのは1年のうちでも数少ない娯楽であって、子供は大人の踊るのを真似ることで、伝統を受け継いでいった。だから誰でも歌や踊りの一つはできたのである。調査先で見せてもらった60すぎの老婆たちの歌について、こう書いている。

腰を浮かし、膝で立って、上半身だけの所作が見ていてもシンから美しい。これがただの農家のばァさんとはどうしても思えない。(p. 35)

昭和26年の対馬の田舎での出来事だ。何百年という伝統が、まだ生き生きと行われていた地域がこの時代は多かったのである。

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