2013年3月10日日曜日

K・M・エリザベス・マレー『ことばへの情熱』

とうとう「読書」カテゴリ100記事目の投稿である。(まあブログに書いている本に特に基準は無いし、記事1つに2冊以上紹介しているときもあるので)100記事目、という以外に意味は無いのだが、それでも大きなの区切りではある。図ったつもりはないが、本書はその節目にふさわしい。

秋に英語史の授業で先生が紹介していて、読みたくなった。2段組で、本文のみで400ページ近い大作だが、頑張って4分の1ずつ読んで、4日で終わらせた。

K・M・エリザベス・マレー(加藤知巳訳)(1980)『ことばへの情熱―ジェイムズ・マレーとオクスフォード英語大辞典』三省堂
K. M. Elizabeth Murray. (1977). Caught in the Web of Words. Yale University Press.

この伝記の主人公を、この記事に簡潔に書き表わすにはどうすればいいだろう。比類なき教師として、威厳ある父親として、博学なる言語学者として、そして、偉大なる辞書編纂者として、後にも先にも、洋の東西を問わず、その主人公、ジェイムズ・マレー(James A. H. Murray)に優る者がいるだろうか。

彼は、その畢生の大事業、The Oxford English Dictionary(OEDの編纂によって、歴史に名を残した。

1837年にスコットランドで生まれたマレーは、幼い頃から好奇心の塊だった。地元の地質、植物、昆虫、方言、文字、博物、自然科学などなどに興味を持ち、学校ではラテン語、ギリシャ語の古典語や、仏語、独語など多くのヨーロッパの言語を学んだ。そのずば抜けた賢さに、彼の教師は驚いたという。学校を卒業し教師になるが、子供好きで、その知識量と生徒への思いやりへの評判は上々であった。仲間と設立した考古学会で考古学の知識も深め、古期英語の研究も始める。やはり彼の並外れた知識に、周囲は関心せずにはいられなかった。彼はまだ20代であった。

結婚してロンドンに移ってからも、言語学会でのスコットランド方言に関する研究などで徐々に名声をあげた。教師の仕事も見つけ、またまた生徒に大人気の先生になった。

一方、1850年代から、言語学会では新しい英語辞典を出版しようという企画が始まっていた。1828年にアメリカで初版が出版された、あのウェブスターの辞書をも凌ぐ、最上の英語辞書を編もうというのである。出版社は編纂者を探していた。この大辞典の編纂には、英文学のみならずヨーロッパ諸語の広い知識、言語学の知識、そして強靭な意志が不可欠である。そこで言語学会は、マレーというすごい研究者がいると、彼を推し、1876年、出版社は彼に話を持ちかけた。かくして、田舎出身で大学も出ていない一介の学校教師が、最高峰となる大辞書の編纂者に大抜擢された。

ここで話をやめれば、すばらしい出世をしたマレーの類まれなるサクセスストーリーである。しかしこの後の編纂作業によって、彼はそれまでの幸せな生活に別れを告げ、文字通り最期まで、編纂という重責に縛り上げられ、心労に耐えなければならなかった。

マレーも協力者も出版社側も、辞書編纂の時間、費用、規模すべてを楽観しすぎていた。

マレーが仕事を始めた直後の1880年には、AからZまですべては19世紀中には終わると見積もっていた。だが進捗は遅々として、1897年にマレーは、1910年までには終わるだろうと予告した。だが結局、最後の分冊が発行されたのは1928年。1857年の提案から71年、第一分冊の出版からは44年が経っていた。マレーは35年間編纂に関わったが、1915年に亡くなっており、完成を見ることはなかった。

出版社の理事会も、進みが遅い、金を払っても原稿が仕上がらない、などなどと散々編纂者を脅しつけ、介入したが、それでもマレーは妥協はしなかった。彼の強靭な意志なしには、今日のOEDはなかった。

7000ページという当初の予定は大幅にはずれ、1933年の補遺を含め12巻、約16000ページの大辞典がこうして完成した。

OEDはその歴史的アプローチが最大の特色である。あらゆる時代のあらゆる語形、あらゆる用法が網羅されている様に圧倒されたければ、百聞は一見にしかずである、このブログを読むより大学図書館などに行き、ぜひ自分の目で見るに越したことはない。ICUには、1989年の第2版、全20巻がある。英知の結晶を、ご覧あれ。

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書きすぎた・・・。本書の出来? うーん、翻訳未経験の氏には、荷が重すぎたか。

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