2012年10月26日金曜日

ICU祭ウェブサイトの運営とデザイン

久しぶりに風邪を引いた。ここ数日鼻水が出て、今日体がだるいことに気付いたので、風邪だと悟った。秋も盛りのこの季節にほぼ毛布1枚で寝ていたせいだろう。風邪で沸いた頭でこれを書いているので、文字通りうわ言である。

ICU祭(ICUの学園祭)のウェブサイトの運営とデザインがひどい。

とは去年から思っていたが、今年もほとんど改善が見られないことが寒心にたえず、熱に浮かされた勢いでここに物申してみる。

2011年公式サイト
2012年公式サイト


まあ、この際デザインには目をつぶろう。私はウェブデザイナーではないし、大学生にあまりウェブデザインやウェブユーザビリティを要求するのも変な話だ。

ここでは内容のことにだけ触れる。まずとにかく、2011年2012年ともに一番の問題として、更新頻度の低さ、内容の薄さは致命的だ。全くお話にならない。2011年の方では、「ICU祭とは?」という超重要リンクは1年経ってもComing Soonだし、外部の方々にとって最重要であるはずの企画の情報も、ステージ発表以外、文字通りゼロだ。他にも、実にいろいろなところが工事中(コンテンツができていない)だ。2012年も、開祭まであと1週間だというのに、例えば「本部企画」は、いまだ見事に見出しだけを載せている状態だ。なるほど、これらのサイトは、見出しだけ見て内容が分かってしまうような千里眼を持った、天分豊かな者にのみICU祭に来る資格が与えられる、知的スリリングに満ちた空間である。

コンテンツのないページに行って、「戻る」ボタンを押すまでの3秒間を返して欲しい。ニールセンが『ウェブ・ユーザビリティ』で書いているように、工事中のページははっきり言って無駄である。ユーザーの時間の無駄にするだけだからだ。いやそれ以前に、ICU祭を楽しみにしてサイトを訪れた高校生、地域の人、卒業生、在学生、その他様々な方々が、情報が全く得られなくて抱いたであろう全がっかりを、どう受け止めるのだろうか。

もうひとつ大きな問題は、サイトの端々に独りよがりが出ている点だ。公の場であるはずのサイトで、「こみってぃ」(2011年トップページ)という、ICU内だけでしか通じない言葉を使うべきではない(コミッティとはICU祭実行委員会のこと)。ここはFacebookのグループではないのだ。「本部企画」と聞いて、普通の企画とどう違って、誰がやっているのか、わかるのだろうか。キャンパスマップが無いのはまだしも、大学ウェブサイトへのリンクがないのはどうなのか。総じて、ICU外の人は、どの建物で何が行われるのか、果たして分かるのだろうか。

ICUの近隣の大学の学園祭のサイトはずっと立派だ。自転車で15分ほどの東京外国語大学の「外語祭」は、まだ開祭まで1か月あるのに内容は充実している。一橋大学の「一橋祭」も然りだし、ICUの隣の小さい大学、ルーテル学院大学の「愛祭」も、ICUよりずっとすっきりしている。武蔵野美術大学の「芸祭」は言わずもがなである。

確かに、これらのサイトは学生によるものではない可能性が高い。対してICUのはおそらく100%学生運営だから、デザインは見劣りはする。だがそれを差し引いても、まだいくらでも改善の余地がある。

まとめると、まったく更新されていないこと(もはやサイトを作って終わり、という感じだ)、情報提供がずさんなこと、そしてICUの独り合点だ。今年のは見やすくはなったのでまだ許せるが、去年のを見た私は、ほとほと呆れてしまった。

少し厳しいことを言うと、こんな内容なら、コミッティはサイトを作らなかったほうがよかったのかもしれない。実際、ICU Festival Official Blogの方が、ずっと内容が充実しているのだから。そして皮肉かな、「ICU祭」とグーグル検索して一番上に出てくるのは、このBlogの方である。

追記:11月3日(土)、4日(日)、ICU祭が開かれます。わが書道部も本館1階にて展示をします。どうぞお越しくださいませ。

2012年10月17日水曜日

語学好きと言語学者の卵へ:AERA MOOK『外国語学がわかる。』

大学でタイ語講習会が開かれると知るや、実用性などというものに考えも及ばずに参加してしまったり、なんとなく教養が深まるかなと、詩にも聖書学にも興味もないのにラテン語を数日かじり、授業もとろうとまでした(が難しくて諦めた)私のような、物好きや、もしくは言語学を学ぼうとしている人にはぜひおすすめな、『外国語学がわかる。』。この本、めっちゃ面白い!

朝日新聞社アエラ編集部(1996)『外国語学がわかる。 (アエラムック―やわらかアカデミズム「学問がわかる。」シリーズ (14))』朝日新聞社

巻頭言は故千野栄一氏と、いきなりビッグ登場できっぷがよい。ムックのくせに、これだけで気合の入り具合が感じられる。

「25言語の25人」という特集では、(編集者が恣意的に選んだ)有名どころの言語25が、各言語の第一線の研究者によって、見開き2ページで解説されている。他にも「少数言語の世界へ」と題して、もう十数言語ある。数十の言語の専門家がここに一同に介しているなんて! こんな本、さがしてもなかなか無いと思う。これはムック(Magazine+bOOK)だから、とにかくスイスイ読めるし情報量も多くて楽しい。ちなみに「大学外国語教育のゆくえ」という特集では、英語教育の特色のある大学の一つとして、ICUも紹介されていた。発行が1996年と古いので、今と全く違うし、ほとんど参考にはならないけれど。

本書は専門的なことは扱わない。言語学の入門書はごまんとあるから難しいことはそれに譲るとして、語学、少数言語の研究、外国語としての日本語などに興味があるけど、難しいことはわからない、となれば、このムックはすこぶる有益だ。

一応、アクティブ・リーディングとして、批判的な物言いをすると、「キーワード55」として挙げられているものが、言語学でも言語史とか言語哲学とか抽象論に寄っている印象を受けた。「エルゴンとエネルゲイア」? 「意味の三角形」? 何それ。選んだ言語学者は本書の対象を意識しているのだろうか。そんな言葉知らなくても、少なくとも私はピンピン言語学を勉強できているし、分からないからといって絶望する必要も全くない。一方、「普遍文法」や「パラメータ」が無いのは驚きだった。私だったら「手話」とか「外来語」とか「音節」とかも入れたい。

それに「ブックガイド50」のなかに『言語学大辞典』(全6巻)が入っているのにはうけた。選者はサドか。

2012年10月14日日曜日

佐藤進一『花押を読む』

佐藤進一(1988)『花押を読む』平凡社

花押を読む (平凡社選書) [ハードカバー] / 佐藤 進一 (著); 平凡社 (刊)

「花押(かおう)は自署の代わりに用いられる記号もしくは符号であって、その起源は自署の草書体にある。草書体の自署を草名とよび、草名の筆順、形状がとうてい普通の文字とは見なしえない特殊性を帯びたものを花押という」(本書10ページ)。

漢字で書かれた古文書の中に紛れ込んだ、解読不能の奇妙な黒いぐるぐるした記号(花押(リンク先Wikipedia))をこれまで何度か見て、その浮いた存在に、毎度不思議な感覚を覚えていた。

興味があるほどではないが、花押はサインの一種であることくらいしか知らなかったので、本を読んでみることにした。花押のような分野にも、しっかり本はあった。

本書は、花押の大雑把な歴史もひもとくが、大部分は花押の列挙と解読である。花押はほぼすべて書いた本人の名前の一部らしいが、解読は専門家にも難しいようで、著者の説明は苦しい所も多い。なので私は眉に唾をつけて読むことにした。だから本書の解説は大して信じていないが、もちろん読む前よりは随分勉強になった。今後の研究の発展に期待したい……にしても、これ以上の伸びしろはあまり多くない分野か……?

2012年10月11日木曜日

刻字作品「ノールゴード(Nordgård)」

本作は、5月に彫って欲しいというお話を受けて、6月半ばに作り始め、7月半ばに完成したのだが、本人にお渡ししたのは先週のことだ。

彫った文字は「ノールゴード(Nordgård)」で、ノルウェーの名字らしい。それと桜の花も添えた。ノルウェー人のお知り合いへのプレゼントにして下さるのだそうだ。

正直、刻字経験の浅い私には、本作はハードルが高かった。片仮名は書道では全く書かないし、横書きをすることも滅多に無いし、まして絵は書道の範疇ではない。

まだ刻字は初心者で勉強中なので、習作として見ていただければ幸いだ。

書いたものを貼る。本当は敷き写ししたものを貼らなければいけないのだが。

彫りがだいたい完了したところ。

やすりがけをし、紙を洗い流したところ。

色とニスを塗って完成。

長野は秋に満ち満ちていた


以下3枚は、トリミング(と署名入れ)以外の編集を一切していない。



この土曜日、用があって地元長野に帰省した。夕方、犬の散歩をしていたところ、道路脇に生えていた柿が透き通るような赤に熟していた。

東京と比べ肌寒い。ここは秋に満ち満ちていた。

2012年10月7日日曜日

河野六郎『文字論』

文字が無かったら飛行機飛ばなかったと思います。
ー今学期の英語史の授業にて、守屋先生

数年前からいつか読もうと思っていた河野六郎『文字論』を読んだ。

河野六郎(1994)『文字論』三省堂

(今は一時期より薄れたものの)文字に強い関心を持っているのだが、この分野の本は図表がほとんどで、学術書はかなり少ない。Amazon.co.jpに関する限り、本書は文字学と検索して一番最初に出てくる本だ。著者の河野氏は、三省堂の『言語学大辞典』の別巻『世界文字辞典』の編著者でもあり、言語学の大家らしい。(今調べたら、編著者はこのほか千野栄一、西田龍雄と、日本の20世紀の言語学の泰斗が名を連ねていて驚いた。しかも西田さんはつい先日9月26日に亡くなっていて二度驚いた。)

もっとも、このブログにも一度書いたことがあるが、文字が学問として、特に私の興味のある言語学の文脈において文字が語られないのには、わけがある。

理由は大きく2つある。一つは、文字は人間の生来の能力ではないということ。外から与えられたものだということだ。事実、聾など特殊な障害のさらに特殊なケースでない限り、言葉を話さない人間はいないのに対し、健康でも文盲の人、さらには文字を持たない言語も多く存在する。ここは河野氏も認めている。(「音声言語は人間の自然であり、文字言語は文化の所産である」(本書8ページ)。)

二つ目は、文字は言語の音声を正確に反映しないということだ。例えば、英語のghに幾通りもの発音があることが挙げられる。このように文字は融通が利かないので、少なくとも言語学において研究の対象とはならない。

それを承知の上でも、私は文字は面白いと思うし、河野氏も文字論の発展を期待して本書を著したのである。

さて、いきなりだが、私が本書で少しがっかりしたのは、『文字論』と題しておきながら、内容が漢字にかなり偏っていることだ。名は文字論でも、実は「漢字プラスアルファ論」である。もっとも、読み終わった今、文字(漢字)学の碩学の著作を読んで損はないと思ったし、いずれ読むべきであったと思う。

最後にアクティブリーディングとして、批判的なことを書かせてもらえば、河野氏が熱く語る「文字の本質=表語」という説は、私にはトートロジー(同語反復)にしか見えない。