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7月, 2012の投稿を表示しています

「コンピュータの名著・古典100冊」

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石田晴久、青山幹雄、安達淳、塩田紳二、山田伸一郎(2003)『コンピュータの名著・古典100冊』インプレス 内容は読んで字の如くだ。若きエンジニア、プログラマやその卵が対象だ。私がエンジニアになりたいわけではないが、コンピュータやインターネットの歴史などに興味があったので読んでみた。やっぱり読むなら名著がいいから。 アルゴリズムって何? 言語って? UNIX? そんなレベルの超初心者だが、100冊中11冊に付箋を貼った。それらをゆっくり読んでいく予定だ。

刻字作品「へのへのもへじ」

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English 書道には、木などに筆文字を彫る、刻字という分野があります。高3のときに一度やって面白かったので、またやろうと思っていました。5月にFacebookで、修行のため作らせてくださいと知人に募ったところ、数名「作って欲しい」という方がいたので、目下制作中です。 以下の作品はその「修行作品」ではなく、昨年冬から書道部で活動し、今日帰ってしまう、アメリカからの留学生のためのプレゼントとして作ったものです。 ある日の書道部で、「へのへのもへじ」とか「つるニハののムし」(一般には「つるニハ○○ムし」と呼ばれているようで)とかが 一瞬 話題になったのをきっかけに、彼女のアメリカへのおみやげに「へのへのもへじ」を彫ろうと決めました。理由は2つ。へのへのもへじという日本の古いサブカルチャーを留学生の彼女に知って欲しかったのと、彼女の友達が日本語がわからなくても、これが顔だとは認識でき(るはずで)、言語と文化を超えて誰にでも楽しんでもらえると思ったからです。(一応「へのへのもへじ」の歴史も調べてみました。インターネットにはまったくありませんでしたが、絵本作家の加古里子さんの著書「 伝承遊び考〈1〉絵かき遊び考 」に膨大な資料と歴史的考察がありました。) 6月中旬、まず、書きます。大きく仮名を書くのには慣れていないし、へのへのもへじとしてバランスを取るのも難しかったです。こんなにたくさん書きました。これほどへのへのもへじに向きあった人はかつてどれだけいたでしょうか。 ネットで調べたら、女性(へめへめしこし)や久米宏もいました。 そして、これぞという作品をでんぷん糊で板(18*17cm)に貼ります。 7月中旬、彫ります。指は痛くなるし、うまく彫れないし、一番しんどい。 なんとか彫れたら、紙を洗い流します。彫った面をヤスリで整えます。ちまちまちまちま、面倒くさい作業。  黒と赤のアクリルガッシュと、金のポスターカラーを塗ります。右下の印は私のイニシャル、「こ」です。そしてニスを2回塗って、裏面に落款を入れ、完成!  以上、ざっとこんな流れです。本当は、絵具や筆を買いに行くなど、こんなスムーズじゃなかったんですけど。 ともあれ、昨日(7月23日)の彼女のキックアウトで、プレゼント

'Henohenomoheji': Japanese Doodle in Calligraphic Engraving

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In Japanese calligraphy (and of course in other asian one), paper isn't the only medium on which characters are written; you can inscribe characters on stone and wood pieces as well. This branch of calligraphy is called kokuji (刻字; literally "engraving character"). And I  recently made  a kokuji  piece of a Japanese traditional half-in-fun doodle  'henohenomoheji.' Henohenomoheji is a n emoticon composed of seven hiragana Japanese phonograms, which are he (へ), no (の), he (へ), no (の), mo  (も), he (へ), and ji (じ). Check the Wikipedia entry ' Henohenomoheji ' for more details (I'm slothful, sorry). But let me add some more info. First of all,  it is so subcultural that, although it's known by every Japanese person, it's been little introduced overseas. Secondly,  this doodle is very traditional. As you may imagine, it's not academic enough to study, and the history is unclear. But according to Satoshi Kako (1926-), a famous picture b

初心者もデザインしたい:「ノンデザイナーズ・デザインブック」

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こういうデザインの本を探していた。 Robin Williams. The non-designer's design book . 1994. ロビン・ウィリアムズ(吉川典秀訳)(1998)『ノンデザイナーズ・デザインブック』毎日コミュニケーションズ 本書は、「デザインを正式には学んだことがないけれど、ページをデザインする必要がある人々のため」(本書p.11)の本だ。つまり、お知らせや、パンフレットや、レポートや、名刺や、プレゼンテーションや、種々の表紙などなど、ページの形をしたメディアのデザインを任されてしまったデザインの初心者のために書かれた。先日読んだ「プレゼンテーションzen」で取り上げられていたので、読んでみたのだ。 本書を読めば、情報デザインとタイポグラフィーの基礎の基礎を学べる。デザインなどわきまえていると思っていても、一読してみれば多くを学べるはずだ。

岩崎氏の感覚世界に惹かれはするものの:「音に色が見える世界」

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彼はあまりに特殊すぎた。 岩崎純一(2009)『音に色が見える世界』PHP研究所 (5か月ぶりに日本人の著者) まず著者の紹介をしよう。彼以上に多様な共感覚を持っている人を、日本では、私はおろか彼自身も知らない。本書の裏表紙の著者紹介から乱暴にも引用させていただくと、「文字の形状に色が見える、音や色に景色が見える、女性の排卵などの各生理現象を、その女性に見聞きする色と音で知る、匂いや味に色や形がある、目視のみで対象者や物体に触れるミラータッチ共感覚を持つ、など、現在の欧米や日本で実在が確認または仮定されている共感覚をほぼすべて保持している。」仰天である。 共感覚に馴染みがない方には、このきわめて文学的ともいえる感覚が信じがたいと思うが、これは比喩やフィクションではなく、岩崎氏には、私たちが物に色を感じ取るのと同じレベルで、文字に色なりが見えるのだ。私は共感覚者ではないが、共感覚は実在すると思っているし、彼の言うこともとりあえず信じている。とにかく、とんでもない共感覚者なのだ。 だが、本書の彼の意見には、違和感を覚えずにはいられない。まず、本書の趣旨が「日本人男性の共感覚感」だというのが、私の引っかかった本書の独自な点だ。そして、彼のナショナリズムというか、(特に江戸以前の)日本語・日本文化志向と、英語をはじめとするヨーロッパ言語・欧米文化・欧米化卑下ともとれそうな思想には、納得できない点が多い。例えば彼によれば、日本の「欧米化」のせいで、人間本来の共感覚的感覚が失われてしまったと言うのだ。そこまで言われると、共感覚を「失った」私らが悪いみたいじゃないか。確かに彼の視点は面白いし、必ずしも唾棄すべきとは思わない。だが、彼の説は、分野の特殊さもあってか、根拠に乏しい。 ただ、読んでみて思い至ったのは、岩崎氏の感覚はあまりに特殊であり、彼ほど強烈な共感覚を持つ人は少なくとも日本では彼一人だけだ。よって、その感覚を共有することは誰にも不可能なのだから、彼の考えに共感できないのはもっともである。本人は大真面目なのはわかるが、果たして読者の共感をどれほど得られるだろうか。 新書という限られた紙面の制約もあってのことだと思うが、僭越を重々承知で言うと、文章もとりわけうまくないし、いろいろな点が言い尽くされていない。この際、新書じゃなくて、この2、3倍

スライドデザインは抑制、シンプル、自然さ:「プレゼンテーションzen」

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退屈なプレゼンテーションはもうやめよう。本書をすべてのプレゼンター(ビジネスマン、大学教員、そして学生、など)へお送りする。 Garr Reynolds. Presentation Zen . 2008. ガー・レイノルズ(熊谷小百合訳)(2009)『プレゼンテーションzen』ピアソン桐原 これはPowerPointなどのメディアを使ったプレゼンテーションのデザインの本である。特に問題とするのは、スライドデザインだ。そう。文字を詰め込んだスライドは諸悪の根源である。細かい文字は読みにくいし、ノートを取る時間もないし、話し手のスピーチにも集中できない。プレゼンテーションの主役は、スライドではなく話し手なのに。こんな経験は、大学の講義で何回もあった。(ただしすべてが悪いわけではない。事実、ELA(大学の英語プログラム)の先生たちにこのプレゼンテーションZenの影響がかなり見られ、もともとそれが私が本書を読むきっかけでもあった。) 本書は、このゆゆしき問題を禅のアプローチで解決する。つまり、デザインにおける「抑制」、「シンプル」、「自然さ」だ(本書p.247)。スライドは、 あくまで 話し手の視覚的サポートに留まるべきなのだ。文字や不適切な画像を使うすべてのプレゼンターに、ぜひ本書を取っていただきたい。 ちなみに、私もICUのELPの授業で2、3度PowerPointを使ったプレゼンをしたことがあるが、1回、先生のすすめで PechaKucha (ペチャクチャ)というフォーマットのプレゼンをしたことがある。知らなかったが、それも本書で紹介されていた。PechaKuchaでは、使っていいスライドは20枚だけ、しかも1枚はきっかり20秒。タイマーで容赦なくスライドは切り替わる。20X20=6分40秒の、短く歯切れのいいプレゼンだ。なかなか刺激的な時間だった。 本書は、著者のブログ「 Presentation Zen 」をもとにしている。彼曰く、「プレゼンテーション・デザインに関するものとしては、最もアクセス数の多いサイト」(本書p.16)だという。 今後プレゼンをするとしたら、このプレゼンテーションZenのアプローチを使うと決めた。本書は、プレゼンテーションデザインの本だが、デザイン一般の本としても一読の価値がある。いや、二読、三読の価値もあ

テンプル・グランディン自伝「我、自閉症に生まれて」

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ただいま長野県に帰省中。 結構有名な本だと思ったのに、地元の図書館にしかなかった。自閉症でありながら、それを克服し、現在動物科学の研究者であると同時に家畜プラント設計会社の社長でも ある、テンプル・グランディンの自伝だ。自閉症患者自身による、数少ない自伝。 Temple Grandin & Margaret M. Scariano. Emergence: Labeled Autistic . 1986. テンプル・グランディン、マーガレット・M・スカリアーノ(カニングハム久子訳)(1994)『我、自閉症に生まれて』学研 自閉症患者が大学を卒業し、まして実業家になるなど普通は考えられない。確かにグランディンは、子供の頃は手の付けられない問題児だった。しかし彼女は、教師や親の愛、そして「ある装置」のおかげで、自閉症を抑制、または利用して、成功を収めることができた。本書は多くの自閉症患者に希望を与えるだろう。 彼女は、2010年、 TEDでの講演 も果たしている。 (内容には関係ないし、私が言う立場にもないと思うが、訳が下手くそだった。今までで2番目くらいに悪かった。 最高級の翻訳 の直後で、これだ。 例えば無生物主語や関係代名詞、もっと上手に訳せるでしょうに。)

仮名の2つ目の段が全く使われぬ、ペレックの「煙滅」

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文学とはホント、ご無沙汰だった。前読んだのは… 8か月前 !? よっぽどのことがなければ読もうとは思わんからね。さてさて、この本は相当へんてこだぞ! Georges Perec. La Disparition . 1969. Georges Perec, Gilbert Adair (translator).  A Void . 1994. ジョルジュ ペレック(塩塚秀一郎訳)(2010)『煙滅』水声社 たねを明かすと、このノベルの原典はフランス語なのだが、なんとこの本、(ペレックの名前は除くと)アルファベットのeが全く使われず書かれてるんだよ! eはフランス語で最も使われるのだそうで、je(僕)もle(the)も、de(of)もet(アンド、それと)も、あれもそれもどれもこれも書けぬとか。まったく、よく書けたものだね。邦訳では、これもすごくて、仮名の2つ目の段が全く使われず書かれてるのだ。翻訳担当の方もさぞ手こずったことだろうね! 彼の腕前へも感服。 オーサーのペレックは、 レーモン・クノーらのまとめる文学工房 のメンバーなのだが、その工房は、様々言葉を操って、新たな、変わった文学を発見することをゴールとした。昨年の5月、クノーの 文なんとか なるへんてこノベルを読んだ節(せつ)、このペレックの本へも出会って、目をつけたのだった。 プロットはなかなかよかった。ただ冒頭は、僕のセンスが悪くて、よく分からなくて、これノベルの役目を果たすのだろうか、読むのやめようかな、と思ったことも無くはなかった。が、峠を越えると、だんだんと謎が解けるところはハラハラだった上、ユーモアもあったので、満足だ。 おっと、前言改め。「なかなか」なんてとんでもなかった。僕はこの本を全く解ってなかった! 先だって翻訳の方が跋文でこの本を解くのを読んだのだが、ペレックが十重二十重(とえはたえ)と巡らせた、数々の驚くほど手の込んだたねや工作に、全然感付かなかった。全くだめ。僕はこの本のうわべを眺めただけだったのだ。やっぱこれは3度も4度も読んで、謎を探るのがおあつらえなんだと悟った。 ともあれ、全く、変なことを考えたもんだね! ううむ、手ずからやるとなると、結構難物だな。

あのTEDも始めたR・S・ワーマン著「それは情報ではない。」

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昨年11月 から目をつけていたリチャード・ソール・ワーマン( Wikipedia 、 Official website )を読んでみた。昨今話題の TED の創始者が彼だと知る者は少ないのではないか。彼は自称「情報建築家」として、「情報をより良く理解する」ことを目指し数々の出版物やイベントを手がけてきており、私はそこに惹かれていた。数カ月前には、彼による東京のガイドブック「 Tokyo Access 」を見てみたが、なかなか面白く画期的なデザインだった。 Richard Saul Wurman.   Information Anxiety 2 . 2000. リチャード・S. ワーマン(金井哲夫訳)(2007)『それは「情報」ではない。―無情報爆発時代を生き抜くためのコミュニケーション・デザイン』エムディエヌコーポレーション さて、本書の原題は「Information Anxiety 2」(情報不安症)である。本書表紙に書かれた説明を引用すると、「偉大なる情報時代は、まさに、無情報時代、つまりデータ爆発の時代となっている。増え続けるデータの猛攻撃から身を守るためには、今すぐ、情報とデータは別物だということを、ハッキリと認識しておくことが大切だ。情報とは、理解に結びつく形になったものを指す言葉だ。」今氾濫しているデータは理解できるものではない。これが「情報不安症」であり、邦題の「それは情報ではない。」もそこから来ている。 こうして見ると、パソコンやインターネットの出現がワーマンの示唆するところであろうし、本書もそれに沿ったものであろうと予想できる。だが、本書を手にとっていくら眺めてみても(2、30分くらい眺めてた)、そして読み終えた今でさえも、本書の主題が全然見えて来なかった。これは何について書かれた本なのかな? 確かに、情報、理解、コミュニケーションあたりがキーワードだと言えなくはないが、よく言えば「盛りだくさん」(400ページ(解説))、悪く言えば無秩序だ。本書の話題をざっと挙げてみても、インターネット、上司と部下のコミュニケーション、会話、質問のあり方、地図、指示のあり方、学習、失敗、人生のデザインなどなど、少なくとも、タイトル(原題、邦題ともに)から想像もできないような内容ばかりだ。これでいてAmazonでは(現在)星4つ以上、決して低く

話題はすごいけど難しいです:「ある言語天才の頭脳」

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なんか最近難しい本ばっかり…。 本書の主人公クリストファは、精神障害や運動障害があるにもかかわらず、20ほどの言語を読み、書き、話し、聞くことができる、とんでもない言語のサヴァンである。外国語学習に苦労している人には全くもってうらやましい話である。 私は、うらやましいと思う代わりに、彼にとにかく興味を持った。一体どのように外国語を修得するのだろう。 Neil Smith & Ianthi-Maria Tsimpli.   The Mind of a Savant . 1995. ニール・スミス、イアンシ‐マリア・ツィンプリ(毛塚恵美子、若林茂則、小菅京子訳)(1999)『ある言語天才の頭脳―言語学習と心のモジュール性』新曜社 などと、わくわくして読んでみたら、この本、すごく難しかった。これははっきり言って本の形をした論文だ。まえがきでは 「本書の大半は、できるだけ広範囲の読者―単に言語学者、心理学者、哲学者だけでなく、いわゆる一般読者―にも読まれるように編まれている」(xxxiページ)というが、正反対だ。言語学を志す学生にさえ大半は分からなかったのだから。たぶん言語学者か心理学者くらいしか理解できないだろう。訳の分からない専門用語が多すぎて、読み飛ばしたに等しいところも少なくない。 もっと人間味あふれる著作を期待していた。クリストファの言語学習や種々のテストの最中には、きっといろいろな会話やドラマや驚きがあったはずである。それをドキュメントしてくれなかったのは残念だ 。こういうところは オリバー・サックス に任せたいところだ。 もちろん、本書の学術文献としての価値を否定はしない。「言語のサヴァンに関しては、研究者の言語学的な研究のレベルが洗練されて」いなかったらしいし(xxvページ)、クリストファの言語運用の研究から、人間の言語能力や精神の構造の対する仮説を打ち出したことは評価されてしかるべきである。遅かれ早かれ、こうした研究は必要だった。(それが論文ではなく本として売られたのが適切だったかどうかは別として。) さて、私が理解できた部分の中でも、研究のためクリストファに言語学的に不可能な人工言語を学習させたときの、彼の(一種の拒絶)反応や創造行為には、私は言葉では表しがたいわくわくを感じた。やはり、やはり(自然)言語や人

肢節量――2次元図形の周の複雑さを表す値――なるもの

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ずっと温めてきたものをようやく完成させる気になった。数学のお話。 1. 肢節量の発見 2. どこを探しても資料が無い 3. 肢節量を求める公式と解説 4. 肢節量の応用 1. 肢節量の発見 今となってはすっかり記憶が薄れてしまったことが惜しいのだが、それは私が高3も後半、机に向かって受験勉強をしていたときのことだ。そのときは地理をやっていたかもしれないし、数学だったかもしれないし、あるいは全く別のことだったかもしれない。けどそんな細かいことはどうでもいい。重要なのは、そのとき私に、ある数学上のひらめきがピカッと起こったということだ。(後になって考えれば、このひらめきは滅多に味わえないなかなか良質のものだったなあ。) 私はそのときアフリカ大陸の海岸線の複雑さのことでも考えていたのかもしれない(いや冗談じゃなくて)。私がひらめいたのは次のようなことだ。 平面上の任意の図形の周の複雑さ(入り組み度合)は、その図形と同面積の円の周と比較することで数値化できる。 分かったかな。これだけじゃ分からないから今すぐ説明を、というならば、「3. 肢節量を求める公式と解説」まで読み飛ばしてね。 私はこのひらめきがとても意味があり、かつ公式化も非常に簡単だと直感したので、すぐさま手元の紙に計算を始め、数分ののちに公式を導き出した。その後電卓を使い、具体的な図形でその入り組み具合を計算してみた。 私は数学的な発見を一つなし得、しばし余韻に浸っていたが、この単純な公式の第1発見者は私では(もちろん)ないだろう。これには何かしらの名称があるはずだ。しかし、これは突然ひらめいたことなので、私がその「入り組み度」の正式名称を知る由も無かった。この値や考え方についてもっと深く知りたいと思ったのに、早くもそれでおしまいになってしまいそうだった。 だがその後(当日だったか後日だったかは定かではない)、私がたまたま偶然持っていた「 データブック・オブ・ザ・ワールド 」(二宮書店)という統計集に、何か載っているかもしれないと思いつき、本棚から取ってきて調べ始めた。そしたらどんぴしゃり!! 世界の大陸の統計に関する欄に、まさに探していたものが載っていた。そこにあった言葉は、「 海岸線の発達度(肢節量) 」。そして大陸ごとのその数値が載っていた。 私の発見したものは