タイの少数民族の村で教会の床を作るワークキャンプ(17日)

10日 出発とパヤップのお出迎え
17日 献堂式とパヤップへの移動
19日 機内泊)

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ホイクンとの別れ

6:50に起きる。相変わらず筋肉痛がひどい。

荷物をまとめるなどし、8時より家で朝食。(昨晩は除き)最後までホストファミリー全員と共に食事をすることはなかったが、今朝はホストブラザーのジョッガーが少し加わってくれた。今朝は肉の揚げもの、卵の炒めもの、(米ではないが)粥みたいなものなどだ。

9時前、家の前で家族とみんな揃って写真を撮ろうということになったので、その前に、私が日本から持ってきたおみやげの森永のキャラメルと、昨日教会でA5ノートに書いた「愛」字をプレゼントした。

そして、足掛け6日間お世話になった家を離れる。毎日が新しかったホイクンの生活もこれで終わりだ。もっとここに住んでもいいと思った。

現役教会付近でたむろしていると、セムが話しかけてきた。いつの間にか仲良しだ。別れを惜しみ、握手を交わした。

みんな集まった。献堂式を始めるべく、新教会に行ってみると、なんと入り口にテープカットの用意ができていた。カットは、ICU教会牧師の北中晶子先生が行った。教会には。整然と椅子が並べられていた。献堂式では、このキャンプで何度も何度もしてきたように賛美歌を歌い、お祈りをしたし、他細々と。まあかための式だ。

10時半ごろだろうか、式典が終わり、教会で村人、PYUICU全員での一番大きい集合写真を撮った。その後、私は村の少年らに誘われて写真を撮ったり、ホストマザーと撮ったり。みんなまるで写真撮影大会だ。

PYUのトラックはもう来ていた。最後に荷台の前に、村人たちが列をなし、私たちひとりひとりと握手をしてくれた。本当にありがとう! ダブルゥ!(カレン語でありがとう!)

11時過ぎ、予定を1時間過ぎて村を出た。


PYU

トラックは騒音を出しながら猛スピードで飛ばす上、縦横無尽に揺れる。それでも、人の睡眠欲を打ち消すことは出来なかった。1/3くらいの人が、多少なりとも寝ていた。

12時が1/3ほど終わったころ、道沿いの食堂で昼食をとる。チャーハンとスープだった。

PIHに着いたのは、16時だった。久しぶりに「きれいな」部屋に戻ってきた。昨日はシャワーを浴びられなかったので、温水が出てシャワーの設備もある「普通の」シャワーを浴び、伸びたひげも剃り、すっきりする。しばしの安らかな休息だ。

巨大な寮、PIH

6時前、それなりに小ぎれいな格好をしてPIHの入口に集合。今日の夕食に、よさげなレストランに連れてってくれるという。

だが、6時に出発とあったのに、トラックが来ない。全然、来ない。どうやら、トラックの手配の手違いがあったらしい。ぼけーっとしていたら、フィリップがギターと楽譜を持ってきて、ドイと一緒に意味不明な日本語の歌を歌い始めた。フィリップが作詞作曲らしいが、知っている日本語を並べただけのようだ。サビが忘れられない。「ヤキモ~~ ヤキモ~~ ヤキモ~~ ヤキモ~~~」。以後、ヤキイモがフィリップの半ば代名詞になった。

それでも来ず、今度はアメリカ出身のエリックとケイティに、アメリカンダンスを教えてもらった。寮の前の広場でみんなで整列して踊ってみもした。簡単なので今もまだ踊れる。

それでも来ず……、全員で大きな輪になって、リーダーエリックのもといろいろなゲームをした。このキャンプ中、エリックとフィリップのコンビは本当にいろいろなレクゲームを知っていて、そして彼らに本当に笑わされた。

蚊に足を何か所も刺された。タイの蚊の免疫がなく、とても痒かった!

迎えが来たのは、結局8時だった。2時間も遅れた! 今までの大きいトラックではなく、消防車を彷彿とする真っ赤な小さいのが、6台も来た。10人乗りくらいだったので、4台くらいしか使わなかったのだが。

そのトラックは、シートがしっかり備わっていて座り心地はよかったのだが、狭くて天井が低くて、人との接触がさらに大だった。さらに、大きいトラックにはまだ(よくあるような)跳ね上げ式の囲いがあったのだが、これにはそのような安全装置は何もなく、一歩踏み出せばそのまま道路に放り出された。私はいちばん後ろの席だったので、スリリングだった。

20分ほど走って、ちょっと繁華なところに降ろされた。そしてビルに入り案内されたのは、豪華にセッティングされた会場だった! 想像以上のクオリティに、半袖+7部丈短パンは場違いな気がした(この格好で象にも乗った)。まあみんな同じような格好だったから、問題なかったのだが。でも、虫が飛んでいるところは村でもレストランでも変わらなかった。これがタイでは普通なのだろう。

それにしても、食事とセットの高級さに、朝のシンプルな食事との乖離を感じずにはいられなかった。

スパゲッティなど洋食もあった。こういうところは普通の観光でも来られるから、別に来なくてもよかったかもと思った。


ナイトマーケット

スケジュールでは、ディナーのあとはナイトマーケットで買い物になっていた。でもレストランを9時後半に出て、マーケットに10時過ぎに着いたので(本来ならPIHに着いている時間だ)、あまり時間が無い予感だ。思ったよりマーケットの閉店時間も早く、閉まっている店もしばしばあった。人も少なく、がらがらだった。

30分も歩かないうちに、案内役のフィリップが雑多な交差点に止まった。他のグループの人もそこに集まりだした。PYU側で終了時刻の打ち合わせだろうか。

待っている間、交差点の角にあった食べ物屋の無料のバナナを頂いたり、友達にバナナのクレープを少し分けてもらったり。

結局11時ころ、そこから赤トラックで帰路に着いた。何も買えなかった。が、トラックの中でPYUの友達が、ナイトマーケットはとても高いから買わなくて正解だったと言われた。11日に行ったストリートマーケットが安いらしい。……それをもうちょっと早く言って欲しかった。

20分くらいでPIHに着き、明日の帰国のために少々荷物を詰め、このジャーナルを書く。

今日はド田舎から高級レストランまで、振れ幅が大きい1日で疲れた。12:20ころ、Good night

PIH C115、及び翌チェンマイ空港での待ち時間、東京への機内
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