タイの少数民族の村で教会の床を作るワークキャンプ(12日)

10日 出発とパヤップのお出迎え
12日 村への移動
19日 機内泊)

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村への大移動

6:20起床。朝食はチャーハン(タイでもポピュラーらしい)と目玉焼き、そして昨日と同じ激甘スイカジュース。7:45にごはんが終わり、PYUからプレゼントされた、ワーク用のうす水色のおそろいのTシャツを着て、食堂の入り口で集合写真を撮影。

そして、8:30、昨日までのより大きい(けれど形は同じ)トラックに荷物と人を詰め込んで、予定を30分過ぎて、村へ出発。

スケジュールでは、村への移動時間は3時間30分。この移動には覚悟が必要だと、日本でのミーティングで脅されていた。トラックで舗装されていない道を通るから、下手に乗ってトラックから放り出されるなと言われていたのだ。沢木耕太郎の「深夜特急」を少し読んだことがあったから、なんとなくイメージはついていた。

予想通り、移動手段は、何度も登場している年季の入った3列平均台トラックだったから、車酔いを心配している人もいた。だけど私は、スリルも味わえるし、お隣との距離がゼロでわいわいできるこのトラックが好きだった。

3時間以上のハードな移動に対する運転手の配慮は(これも予想通り)微塵も感じられず、トラックは喋り声を打ち消す騒音を立て、猛スピードで町々を駆け抜けた。横だけでなく、縦にもがたがた揺れる。こりゃ気持ち悪くなる人もいるわ。

道半ばのガソリンスタンドで、トイレ休憩と、ついでに、スタンドに面してあった売店で、いつの間にかタイのお菓子購入タイム。

その後は11時半、左右にどこまでも針葉樹が続く道の脇で、短い休憩。村は近いという。

村までの最後の約40分の山道で、想像と違ったのは、最後の最後まで舗装道路が続いたこと、そして最後の最後までビルマ文字を見なかったことだ(カレン族の言語はタイ語ではなくカレン語といい、ビルマ文字で書かれる。なので私は1週間ほどビルマ文字を勉強した)。


ホイクン村に到着!

12:30前くらいだろうか、何の前触れもなく、目的地、Houykung(ホイクン)村に着いた。民家がぽつぽつ見えるが、道路からはつい見逃してしまうような小さい村だ。「Welcome PYU - ICU」と書かれた、白く大きい周りの風景と不釣り合いな旗が、この集落が私たちの目的地であると知らせる唯一の目印だった。

網の無いサッカーゴールの置いてある空き地にトラックが止まる。赤黒く焼けた、笑顔の素敵な村の教会の牧師が、握手で迎えてくれた。そこから150mほど、急な坂を降りると、建設途中の大きい新教会と、高床式の既存の教会がまず見えた。


私たちは現役の教会の1階部に大荷物を置くと、2階に入ってまずはPYUから持ってきた弁当で昼食。その後、牧師さんらの歓迎の挨拶を聞く。そして、ホストファミリーへのプレイスメントだ。ICUPYU合わせて40人ほどが、8つのファミリーに分かれた。私は7番の家、教会からはかなり遠いところにあった。これから数日間部屋を共にするのは、もう一人のICU生(2年生)と、PYUの生徒のヌックとクワン、PYUのスタッフでアメリカ出身のエリック、合わせて5人だ。教会に来てくれたホストマザーは、丸顔で小柄、これまた笑顔の素敵な女性だった。

ホストマザーに連れられて家に向かうが、村が山の斜面に立地しているため、坂がスキー場並みに急だ。コンクリートで舗装されているところが多いが、舗装されておらず、あまりに急で狭くて獣道のようなところもあった。それでも村のメインストリートらしい。

10分弱ほどで家についた。家は木造か何かの平屋かなと想像していたが、木は木でも、黒塗りのしっかりした2階建てで、玄関あたりは水色等でおしゃれに塗装されていた。私たちの寝室に、2階の広い1部屋を提供してくれた。12畳くらいだ。ホストマザーが早速、御座とたくさんの毛布類を出してくれた。

チャボが何匹も放し飼いされており、ヒヨコもたくさんいた。ついでだが、タイにはどこにでも犬がいた。種も大体決まっている。例えば、PIHにも、ホイクンにも、ドーベルマンを日本犬の大きさにしたようなやつがいた。どの犬も無愛想。ホイクンの犬は一層その傾向があり、白目が広く、ヤクザみたいな上目遣いでガンを飛ばしてくる(ように私には見えた)。近づいたり触ったりすると逃げた(これは日頃村人たちに棒で叩かれて、追い払われているからなのだが)。

30分ほど部屋で休んだら、村を散策。20分あれば、ゆっくりと村のメインストリートを一周できる小ささだ。時間はあったが、散歩も450分くらいで終わってしまった。暑い。


数十年前の日本の生活?

家におじゃまして、私は2世代くらい前の日本にタイムスリップした不思議な感じになった。外から幾度となく聞こえてくるコケコッコーという鳴き声や、舗装されていないでこぼこの地面や、その他様々な暮らしぶりが、私の経験したことのない昔の日本の暮らしを彷彿した。わくわくした。

家に戻って少し寝て、6時より村の食堂でディナー。そういえば夕食に向かう前、家の前で、隣の家のおばさんとエリックがタイ語で普通に話していた。ところどころ私にも分かる単語がある。多分、どこから来たの、とかそういう会話だ。おばさんがエリックの流暢なタイ語を褒めていたのは分かった。おばさんはときどき私にもタイ語で話してくれる。でも分からなかったからエリックの通訳が必要だった。しばらくして、おばさんが私の年齢を聞いてきた。タイ語で答えてみた。数字なら言える。「18(歳です)……、いや、19。」

ホイクンでは、予想に反してタイ語が普通に通じた。ほとんどの人が理解しているように思えた。だがカレン語も通じてはいたようだ。バイリンガルなのだろうか。それも含めこの村の言語事情を聞きたかったが、機会を失してしまった。

食堂に行くとテーブルにキャンドルがともされていて、素敵にセットされていた。

ホイクンは電気も通っていて、食堂もあって、トイレもあって、聞いていたより近代化が進んでいた。実際、ワークキャンプに数回参加しているICUの鈴木先生も、例年より立派だと言っていた。

食事の最中、大雨が降ってきた。スコールだろうか(3月は一応乾季なのだが)。食堂の外には、すぐに大きな水たまりができた。大雨で外に出られないので、エリックのリードのもと、十数人でゲームもした。その後6:50ころ、大雨のためか、停電した! ちょうどこの日はキャンドルが点いていたので、本格的にロマンチックになった。

停電は数分で回復し、7時ころから、食堂でそのままオープニング礼拝が始まった。お祈りしたり、PYUの先生のお話を聞いたり、エリックらの司会でレクをしたりした。

9時ころ(?)、今日の予定は終わって解散となったが、途中の「獣道」が雨でぬかるんで歩けなくなったため、逆方向で遠回りをして帰る。空を見上げると、星がたくさん見えとても綺麗だった。

家に戻ったら、このジャーナルを書く。シャワーは水なので寒い上、10時以降は危険だから外出するなと言われていたので(不審者どうこうということではなく、犬が凶暴化するそうなのだ!)、シャワーは浴びられなかった。

ここでトイレとシャワーのことについて書いておかなければ。私たちの家の設備は、屋外の3畳ほどの広さの小屋で、中に備え付けの水桶とトイレがあった。トイレを流すには、桶から水をすくって流す。つまり手動の水洗トイレだから、思っていたよりはしっかりしていた。


シャワーも同じ場所だ。だがあるのは水のみ。日本で言う風呂の設備はおろか、そもそもお湯が無い。水をすくって体にかけ、冷たさに見を縮め、そして少々の石鹸で体を洗う、これが私の「シャワー」だった。ちなみに、水も綺麗じゃない。桶の深さは50cmくらいあったが、底が見えないくらいにほんのり濁っていた。まあ私は気にせず、むしろこの生活を楽しんでいたくらいだったが。洗濯も、同じ水を使った。たらいを使って手洗いだ。

昼は真夏でも夜は肌寒く、かいた汗はすっかり乾いていた。10時半、Good Night

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