2011年9月23日金曜日

脳のすべてが明かされる日なんてあるのかな

昨日読み終えた本は、失語症――言葉を自由に操れなくなってしまう障害――を扱った新書、言葉と脳と心 失語症とは何か (講談社現代新書) [新書] / 山鳥 重 (著); 講談社 (刊)です。



私は失語症に触れた書物はすでに2、3冊読んでいるので、本当はそれほど読みたくなかったんですけど、これを手にとるまで本書の副題を知らなかったので、男に二言は無いと思って、読んだ次第です。

失語症はいくらでも細かい症状に分けることができるそうですが、本書はその中の基本の5つだけに絞って、掘り下げます。

その5つとは、1)名前が分からなくなるもの。2)言葉が出なくなるもの。(ブローカ失語)3)言葉が理解できなくなるもの。(ウェルニッケ失語)4)分かっているのに正しく話せなくなるもの。5)言葉が空回りするもの。(左右脳の切断や、右脳の損傷のため)

ただ、5つ目は、左脳の言語領域が損傷するわけではないので、失語症ではありません。

タイトルが「言葉と脳」ではなく「言葉と脳と心」なのは、「心」というプロセスが本書のキーワードになっているからです。ここで、言葉も脳も、形があり、客観的な観察ができるので問題無いのですが、心という、形もなく主観的なものが議論されてよいのか、私は疑問に思いました。著者による「心」の定義はどこにも書かれていませんでした。

さらに著者の山鳥氏は、心が作りだし、私たちが形として意識するものを「心像」と名付け、失語症に関する彼の説の中心的な考え方に位置付けています。

でも結局、心って何だ? 心に浮かぶ形って何なんだ?

心像というプロセスの導入による彼の説が、筋が通っているのは確かです。しかし、心像の存在は仮定に過ぎません。あるのかもしれないし、無いのかもしれない。どうやって存在を確かめるのでしょうか?

それと非常に深いつながりのある私の考えに、脳の多義性(私が今命名)があります。

つまり、脳のこの部分はこういった働きをする、と一義的に決めることはできないということ。例えば、ブローカ失語を発見したブローカは、その病巣を脳の左下前頭回後方と考えましたが、その後、そこに病巣がありながら失語を示さなかった例や、典型的なブローカ失語にもかかわらずそこが無傷であった例があるという報告がなされました。脳のいくつかの箇所が1つの機能を担当したり、あるいは脳の1つの箇所がいくつかの機能を担当していたりするのです。それも、あまりに複雑な形で。

昔読んだ本では、言語はここ、運動はここ、聴覚はここなどと、機能が脳にかなり明確にマッピングされていました。少なくとも当時の脳科学(またはその本の著者)は、脳の一義性を前提としていたのでしょうが、少なくとも今の私は、何冊か本を読んでいるうちにそれが全くと言っていいほど信じられなくなりました。

例えば、先日読んだ「プルーストとイカ」で、何名かの研究者が各々推測した、読字障害の病巣をすべて重ね合わせてみたら、読字のときに活性化する脳領域をほぼカバーしていたという皮肉に、私は脳科学の難しさというか、徒労みたいなものを感じました。脳科学に価値が無いと言っているのではありません。さらに何十年もの研究が必要だと言いたいのです。

そんなわけのわからない複雑なものを私は頭の中に入れているのです。考えると気が遠くなります。

最後に。この心がどうの、脳がどうのという議論は、本書を批判するためにしたのではありません。本書はいろいろな洞察に満ちています。当事者には語弊がありますが、失語症の症例もいくつか紹介されていて、興味深いです。私が特に面白いと思ったのは、第5章、左右の脳を切断された患者の左脳が、認知できなかったことを勝手に補填して作り話をしてしまうという、奇妙な症状でした。

私には絶対にわからない(たとえ私の左右脳が切断されたとしても、同じことなるとは限らないし、自分に異常が起こっているという自覚が起こらないことが多い。)、未知の世界を垣間見ることができました。

それにしても、失語症の研究者が失語症になったら、内側から見た失語症が研究できて、とても面白いと思うんですけど、どうでしょう?

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