2017年3月20日月曜日

下手くそな筆文字ロゴが また1つ この世に生み出された

写真はイメージです

食品包装、タイトルロゴ、日本酒ラベル、居酒屋の壁面などなど・・・、身近な場面で、筆で書かれた文字を見ることは多い。

それらは「書家」に外注しているものと思われるが、中には、言っちゃ悪いが、目を覆いたくなるような醜悪な「書」もある[1]。否、もはや「書」とは呼びがたい、プロに書いてもらったとは到底思えぬ「文字列」が数多く存在するのだ。私の思えらく、外注のコスト削減のため、書の腕に覚えのある社内の誰か(つまり素人)が、創意工夫を凝らして、したためたものと思われる。そう思わせてしまう例が、後を絶たない。

礼を失するのは承知で具体例を挙げると、最たる例が、「電王戦」である。始筆の曖昧な、右に傾いた「王」、つくり(戈)の背が極端に低い、小粒の「戦」・・・。そして極めつけは言うまでもなく、その自由闊達に伸びた見事な「電」の最終画である。嗚呼、ここまでくると、下手を通り越して、滑稽ですらある。書はおろか、生まれてこのかた筆を握ったこともなければ漢字も書いたことのない外国人が書いたのではないかというくらいの字である。

電王戦の公式サイトではまた、「叡王戦」、「将棋電王トーナメント」という筆文字ロゴも見ることができる。こちらも、新入社員に書かせたのではないかという感じの出来栄えである。5流6流の書家でもこんな字は書かない。この書き手が万が一「書家」だとしたら、開いた口が塞がらなすぎて顎がはずれてしまう。


[1]私は、鍵盤の「ド」の位置もよく分からないくらい、音楽に関してど素人なのだが、例えば耳をふさぎたくなるような音楽というのも巷にあふれているのだろか。教えてエライ人。

2017年1月8日日曜日

「書き初めコンクール」の入賞作品は2つの点で「異常」である

昨日、1月6日付の読売新聞朝刊に、小中高校生の参加する「読売書き初めコンクール」の入賞作品が載っていた。このコンクールは毎年正月の風物詩だが、私の記憶の限りでは、特に小中学生の入賞作に、以前からある特殊な共通点がある。

それは1)文字が紙面いっぱいに書かれている、2)応募者は応募に至るまで、数百枚という数を書いている、という点だ。

これらは、伝統的な書作には見られない特徴である。これは何も読売のコンクールに限ったことではなく、およそ日本の小中学生の書き初めに普通に見られる。

1)書において、余白と文字のバランスは極めて重要である。余白がなければ、美しい書は生まれない、と言って差し支えない。字が紙の端まで書かれていると、窮屈で、さらに文字が四方に拡散するような印象を与えてしまう。つまり、字を上手に書くことだけでなく、適切な余白を取ることも、いい作品を作るのには必要である。

日本の書き初めコンクールでは、余白の重要性は往々にして無視される。子供は、縮こまっていないで元気いっぱいに書くべきだというオトナの意識が、どこかしらあるのかもしれない。そういう精神を責めるつもりは毛頭ないが、結果として、知らず知らずのうちに大人が子供の審美眼を改変してしまっているとも言えなくもない。

対象的に、中国の書法教育においては余白の重要性が強調される。手元にある大学生用の書法の教科書には、「布白则是翰墨尘点的反衬,构成整幅作品的有机组成部分」とある。「余白は書かれた部分と表裏一体をなす、整った作品をつくる有機的な部分である」というような意味である。

下の写真は、私が西安で撮ったものである。大人が書いたものなので、単純な比較はできないが、余白のとり方は典型的な中国式である。(ただし余白をとりすぎて、かえって間が抜けた作品も中国には少なくないが。)

参考例1 中国・西安の書院門街にて

参考例2 同じく書院門街での露店

2)何百枚も書くのはいいが、それは練習に留めるべきで、作品として公に発表するのには、やや抵抗がある。というのも、何百枚も書かないと良い作が書けないというのは、果たしてそれを実力と言っていいのか、疑問だからである。何百枚も書いて、「運良く」完璧な作品が書けたのではないか、と私は思ってしまうのである。

これは私の経験からも言える。「ここが上手く書けなかったから、次はそこを上手に書こう」と思って次の1枚を書くと、そこは良くなるのだが、今度は別の箇所が気に入らない・・・ということはしょっちゅうで、何十枚か書くと、「これはなかなかいいかな」というものが出来上がる。しかし、それは自分ではコントロールしがたいもので、違う機会に同じ枚数を書けば同じクオリティーのものが仕上がる、という保証は全くない。しかし上達するにつれて、50枚が20枚、10枚、5枚と、書き上げる枚数は、確実に減っていく。

何百枚目かに、偶然、どこも気に入らない箇所のない完璧な作品が書けたからといって、それは実力なのだろうか。どの入賞作も、一般的な小中学生に不釣り合いなほど著しく均整が取れているが。

公にすることのない、臨書などを何百枚とするのは良いことだ。それは自分のトレーニングだからである。しかし、自分のトレーニングの成果を見せる作品というのは、数回で書かなければ正直でないと思うのだ。例えて言えば、ルービックキューブである。キューバーと呼ばれるルービックキューブの達人は、ふだんから何百回と練習をしているが、そこで偶然、世界記録を叩き出してしまっても、公式記録にはならない。記録を取るときには、方式によるがたった1回、ないしは5回しか挑戦できないのである。

邵庆祥,潘军主編(2014)『大学书法教程』高等教育出版社 158頁

2017年1月4日水曜日

「書家」には方向性を全く異にする2つのタイプがいることをご存知だろうか

その2タイプ、勝手に名付けて「マスコミ若手書家」と「公募展大御所書家」という。

上海の街角で

一部は私の推測もあり、なおかつ、すこぶる紋切り型な分類であることは申し上げるまでもないが、「マスコミ若手書家」は、ネットが普及した2000年代に登場し、以下のような特徴を持つ。

活動形態として
・しゃれた公式サイトを持ち
・仕事はネット経由が多く
・パフォーマンスを行ったり
・マスコミに出たり大衆向けの本を書いたりするが、
・大手公募展には出品しないことが多い
・自身の教室は必ずしも持っておらず
・主に広告や商品ラベル等に書を提供することが仕事で
・しばしば欧米を意識している

作品形式として
・強烈な個性の書風を開拓し
・1文字ないしは数文字、あるいは平易な散文が主な作品である
・客観的評価(大手公募展の入選等)が皆無または乏しく、実力のバラつきが激しく
・媒体は紙に限らず、布、電子媒体、入れ墨など多岐にわたる

例:武田氏、中塚氏


対して「公募展大御所書家」は、公募展というものができた戦後以降に登場し、以下のような特徴を持つ。

活動形態として
・ネットを使わないので
・仕事はリアルで受けることが多い
・パフォーマンスを行わず
・マスコミに滅多に出ず、本を書いても玄人向けで
・公募展に出品するのが仕事である
・多くの弟子を抱えており
・主に弟子からの月謝で生計を立てている
・国際的意識はせいぜい中国

作品形式として
・古典に則った書風を確立しており
・漢詩、和歌、その他文学を基調とした作品が主である
・有名な公募展の審査員等の肩書を持ち、一定以上の技量があり
・媒体は紙、印材(=篆刻)、銘木(=刻字)がほとんどである

例:「現代書道二十人展」の各氏

この2タイプの中間として、例えば「大御所書家」的な作品を作りながら、ネットも精力的に使っている人もいる。そういう人の仕事は、ネット経由が半分、リアルが半分なのだろうと思われる。一つの尺度として、サイトにお金を使っていそうかどうかを見れば、その人がどれだけネットに頼っているかを推し量ることができる

まれに、どちらのタイプにも当てはめがたい方がいて、そういう方は、表舞台にほとんど出ずに、独自に創作活動をしている。(趣味でやっている人、という意味ではない。)ただし、私の知る限り、そういう方も、有名な書家を師に持っていることが多いので、作品としては「大御所書家」側である。そういう方々を発掘するのは大変難しいが、個人的に、そういう方々の作品には特別な魅力を感じる。

日展、読売書法展、毎日書道展レベル

2017年1月2日月曜日

「55個の母音を持つ言語」というギネス記録は間違いである

私の手元にある1980年度版の「ギネスブック」に、「最も多くの母音を持つ言語」として、ベトナムのセダン語が挙げられている。信じがたきかな、55個もの母音を持つという。

しかし、これは明らかな間違いである。セダン語を記述した論文にあたると、セダン語の母音は7つしかないからである。英語には、母音が10個くらいあるから、英語より少ないのである。

以上。

と言いたいところだが、学生時代の暇に任せて、もう少し詳しいことを書いたので、以下に続く。


その記録は以下のようである。「最も多くの母音を持つ言語」として、

最も多くの母音を持つ言語はベトナム中央部のセダン(Sedang)で、55のはっきり区別できる母音を持つ。(144頁)

とある。記述は以上で、出典はない。さて、この記録を信じていいのか。

日本語の母音は、「アイウエオ」の5つである。英語の母音はもっと多くて、アメリカの一般的な英語だと、10個くらいある。

世界の言語を見渡すと、アラビア語や沖縄の一部の方言のように3つの母音しか持たない言語や、ドイツ語、フランス語、ヒンドゥー語のように10以上の母音を持つ言語もある。しかし一般に、世界の言語を見渡したとき、日本語、中国語のように5~7個の母音を持つ言語が大半である。母音が20を超える言語を私は知らず、55個となると、凄まじい数である。

母音というものは、基本的に、舌の上下前後の位置や、唇のすぼめ具合を調整することによって発声される。つまり母音とは、いろいろなバリエーションのあり得る子音と違って、口の中で、舌の位置や唇の形を絶妙に変えることによって生み出される、デリケートな音である。であるから、本当に55個も母音を持つ言語があったとしたら、それを発声する口と、それを聞き分ける耳に、とてつもない精密さが要求されるということだ。果たしてそんな緻密すぎることができるのか。

そんな言語学の知識を抜きにしても、「母音が55個」なんていうのは、直感的に考えておかしい。

あの有名な「ギネス世界記録」に間違いが?と思うかもしれない。けれども、ギネス・ワールド・レコーズ社の担当者が十分な言語学の知識を持ち合わせていたとは限らないのである。担当者の見当違いということはありえない話ではない。

真偽を確かめるべく、調査をしてみたところ(2年ほど前のことです)、セダン語を記述した文献として、次の2冊が見つかった。

Smith, K. D. 1982. Phonology and Syntax of Sedang, A Vietnamese Mon-Khmer Language (Doctoral dissertation, University of Pennsylvania, 1975).

Smith, K. D. 1979. Sedang Grammar: Phonological and Syntactic Structure. Canberra: Australian National University.

スミス(1979)(左)とスミス(1982)の文献

セダン語の研究ではKenneth Smith(以下、スミス)という人が第一人者であるようだ。1979年の文献は、博士論文である1975年の文献の再版と思われ、2冊の内容は全く同じである。よって、以下は新しい方の文献に基づいている。

以下、厳密さを損ねないため、必要最小限の専門用語を使っているが、難しいと感じれば、読み飛ばしても構わない。結論から言うと、冒頭で申し上げたようにセダン語は平々凡々の7母音体系である。

スミス(1979:31-44頁)によると、セダン語の単純母音は、/i, e, ɛ, a, ɔ, o, u/ の7つである。下が母音表である。

iu
eo
ɛɔ
a
セダン語の母音

はい、終わり。

セダン語は、何の変哲もない母音体系である。母音が7つというのは、世界の言語の中でもごく標準的な数である。この母音体系は、イタリア語とさして変わらない。期待していただけに、拍子抜けする。

ならば、一体どうして、55母音という突拍子もない数字が出てきたのか、知りたくなってくる。

私の推測だが、1)「緊張音」、「複合母音」、「鼻母音」という、セダン語の複雑な副次的母音体系を間違って理解した、2)子音を間違えて母音の数に入れてしまった、という2つの可能性がある。

(2)は手のつけようのない凡ミスだが、(1)について、もう少し詳しく言う。セダン語を含む周辺のいくつかの東南アジア諸語の母音には、lax(弛緩)とtense(緊張)という区別があるそうだ。つまり、上に挙げた7つの単純母音のそれぞれに、弛緩音と緊張音の区別がある。弛緩音がいわゆる普通の発声の母音で、緊張音とは一般に「きしみ音(creaky voice)」と呼ばれる音である。日本語にはない音だが、「あ゛ー」や「う゛ー」と書かれる低いうなり声を想像すればいい。(きしみ音の音声(ページ下部)と英語の図解。)

加えて、セダン語には9つの複合母音があり、さらに一部の母音には鼻母音がある。仮に、単純母音、緊張音、それらの複合母音、それらの鼻母音を、全て1種類の母音と見なすならば、私の計算では、51個になるのだ。

しかし、これは言語学上の慣習を完全に無視している。言語学において、「母音の数」というのは、原則として単純母音の数を意味するのであり、鼻母音、複合母音、その他特殊な母音は、数のうちに含めない。日本語にも長母音(アーイーウーエーオー)という特殊な母音があるが、それを独立した母音とはみなさないのと同じである。

論文に依拠して、言語学的に真っ当な結論を申し上げると、セダン語は、繰り返すように、7母音しか持たないのである。

参考
ノリス・マクワーター編(1979)『ギネスブック』講談社

2016年12月14日水曜日

「趣味は書道です、でも見るだけで字は書きません」 「えっ?」

「鑑賞」と名のつく趣味は、映画鑑賞、音楽鑑賞、美術鑑賞あたりだろう。Googleで「趣味 鑑賞」と検索してみて、最初の1ページに出てくるのは、その3つだけだった。

「書の鑑賞」という趣味は聞いたことが無い。

単純に書道をする人口が少ないからだろう。半分正解。いやほぼ正解である。

だが、単に書道人口の少なさだけが理由ではないと思う。「書の鑑賞」が一般でない背景には、人々の意識の問題もあると思う。

西安・書院門街にて 野外での新古書売り

実は書道のコミュニティを見回してみても、鑑賞にそれなりの時間とお金を割いている人はほとんどいない。私の知人の範囲では、全然いない・・・と思う。かくいう私も趣味というほどには徹底していない。学生の頃こそ、一時期は書に関する図録・解説書・資料に毎月数万円を使っていたけれども、今はゼロ円~数千円だ。

ざっくり言って、書を単なる「字を上手に書くための訓練」と思っている人は、書の経験の有無に関わらず、たいへん多い印象を受ける。もしも書くだけでいいなら、多少の初期投資(硯、手本等)をすれば、後は紙、墨、筆といった限られた消耗材にお金をかけるだけでいい。(人によっては月謝、も。)けれどもそれはとても薄っぺらい、もったいない学びだと思う。

多くの人にとっては、小中学校の「書写」の授業が数少ない書道体験だろう。そこでは、現代生活に即した実用的な部分ばかりが強調され、芸術的、歴史的な部分に関しての座学はない。それがあってか、書道とは実践、すなわち「書くこと」だと広く思われている。

しかしながら、書における鑑賞の重要性は強調してもしきれない。なぜならば、(音楽等にも全く同じことが言えるのだが)優れた作品に触れることが自分の創作を刺激し、あるいは純粋に、自身の精神生活を豊かにするからである。

書の腕を鍛えたいならば、書くことに匹敵するくらい「見る」ことにお金と時間をつぎ込むべきだと思う。書くのは好きじゃないけど感動に飢えているのなら、もっぱら「見る」ことに投資したっていい(今のところ私がそうだ)。音楽や芸術と同じく、感情を震えさせてくれるものだから、書いていなくても、見るのが好きならば「書道が趣味だ」と言っていいと思うのだ。

およそ東洋の手書き文字であれば、何でも鑑賞の対象とすべきである。古代中国の青銅器に鋳込まれた文字、現代の書家による作品、浄瑠璃の床本、老舗に掲げられた看板、道端の石碑などなど、多岐にわたる。見るべきものの数はおびただしく、展覧会に足を運んだり、本を買ったり、写真を撮ったり、現物を集めたり・・・、できることはいろいろある。ここ東アジアには、数千年に渡る膨大な文字資料・書作品群があり、そして現在も素晴らしい作品が生み出されている。

余裕があれば、手書きでないもの、東洋以外のもの、文字以外のものにも積極的に触れることで、表現の幅はさらに広がるだろう。日本国内に留まらず、書の本場、中国にも目を配り、ときには自分で中国の地を旅してみれば、新たな世界が開けてくる。

書道において、学習者は必ず臨書というものをする。横に置いた古典作品の法帖を見ながら、半紙や半切にそっくりに書くのである。臨書の際に、古典の一文字一文字、ないしは全体構成を見るのも、もちろん鑑賞の一つだ。しかしながら臨書に使われる作品は、鑑賞の対象全体から見たら、ごく一部に過ぎないのだ。

いろいろなものを見て目が肥えてくると、次第に書の良し悪しが見えてくるようになり、「これはすばらしい」、もしくは「これは見るべきほどのものではない」という判断ができるようになってくる。時に感動的な作品に出会うと、何がこれほどの感動を与えるのだろう、と理解しようとする。そして、その優れた部分を自分の作品にも取り入れてみたくなる。そのインプット、アウトプットの連続によって、腕が磨かれ、表現の幅が広がってくのである。

書は実践半分、鑑賞半分である。

2016年12月8日木曜日

肩肘張らない書がいちばんいい書ですわ

大が付くほどではないが安田靫彦が何かと好きで、昨春に東京国立近代美術館で開催された「安田靫彦展」も見に行った。

もちろんその絵に惹かれて見に行ったのだが、そこで、その絵に賛として書かれている字が、これまたいい字であることを知った。安田靫彦はもちろん書を生業としていた訳ではないが、そのヒョロヒョロした字は、良寛のそれを彷彿とするもので、あとで調べてみれば果たして安田氏は良寛の研究者として有名だったらしい。

良寛の字は脱力した、強く押せば折れて崩れてしまいそうな、か弱げな線が特徴的だが、素人がただそのまねをして書いても、まさしく間の抜けた醜い字になるのみで、良寛の書の境地には到底達することができない。良寛の書はか弱そうに見えるけれども、書の基礎はしっかりとおさえ、緻密に計算された字なのである。

しゃちほこばって一生懸命書いた字は見ていて窮屈なものだが、安田靫彦の字は、良寛同様、緊張した気持ちが弛緩するような、そんな柔らかさ、親しみやすさをもっていた。

後日、中央公論美術出版から出ている作品集『安田靫彦の書』(1979)を安価で手に入れて、そぞろに眺めていた。私は書をやっていたので、字を見れば書き手の筆の動きが想像されるのだが、安田靫彦の場合はとくにそれが顕著な感じがした。彼の肩の力の抜け具合は、字の大小を問わず、一貫していた。

安田氏の書は、画賛をはじめ、一行書、扁額など多岐にわたるが、そのなかでもとりわけ私の心をつかんだのが、書簡であった。つまり手紙である。蛇足であるが、安田靫彦の時代は手紙も墨書である。

手紙なのだから、書き手はそれをあとあと保存しようとなどとは思っていない。だから画賛、一行書、扁額などとは決定的に性格が異なるもので、そもそも「作品」として本に載るのも、書き手にとっては不本意かも知れぬ。しかし、能書家の書いた手紙は往々にして長らく保存され、軸装される場合さえある。安田靫彦も例外ではなかった。

彼の書簡を見ると、やはりその他のジャンルの書より明らかに違う。字は崩れていて、筆の運びも早く、潤滑(にじみかすれ)の差が激しく、行の中心線は通っていない。手紙なのだから、要件が伝わればそれでよく、すぐ捨てられるものだ。字を丁寧に書く必要はないのだ。

書簡以外の書は、大抵ちゃんと「おすまし」して書かれており読みやすい。しかしどこか優等生的で、比較すると見ていてつまらないところがある。

一方書簡は、書き手の筆意がありのままに見えて面白く、なおかつ自然体なのだ。早く書こうとすれば、字は崩れるのはあたりまえ。何回も墨継ぎをする間もないから、字がかすれるのもあたりまえ。前の字からの連綿(つながり)があるから、上下で中心線がずれるものあたりまえのことである。

そういう変化に富んでいる書というのは、書の世界では古くから傑作とされてきた。中国は唐時代、顔真卿の「三稿」や、平安時代の古筆切の数々を見れば明らかである。(もちろん「肩肘張って」書いた作品でも、傑作として名高いものは数多い。念のため。)

自然体が出ている書は面白い。

そう考えると、現代の公募展に出されているような多くの「肩肘の張りに張った」書作品は、まったくつまらないと言わざるをえない。似たような線の質、似たような字の大きさ、均一なかすれ、縦横ビシっとそろった中心線・・・。全部が全部というわけではないが、書道を初めて日が浅い人は、特に「優等生的」な凡作に終わることが多い。

賞状書士にでもなるならそれでいいが、面白みのない作品を床の間に飾るのは興ざめである。

肩に力の入った不自然な書が多いという事実は、実は自然体の書を書くのが難しいということの裏返しである。

自然体というのは、ただ漫然と書けばいいということではない。そもそも、現代にあって文字を筆で書くというのが「自然」なことではない。そこは不可抗力として一歩譲るにしても、変化に富んだ書を生み出すには、それ相応の創造性を持ち合わせていないといけない。線の引き方、字の崩し方、連綿のしかた等々、自然体を達成するためにはかなりの習熟を要するのだ。

肩肘張らないすばらしい書。これが私が最も好きな書であるととともに、こう書きたい、という理想である。

2016年11月10日木曜日

なぜドナルド・トランプの中国語名に「Telangpu」と「Chuanpu」があるのか

ドナルド・トランプの中国語名には、「唐纳德・特朗普(táng nà dé・tè lǎng pǔ)」と、「―・川普(―・chuān pǔ)」の2通りがある。

ファミリーネームのピンインを敢えて仮名におこすと、前者は「トゥーランプー」、後者は「チュアンプー」とでもなろうか。

どちらが元の語「trump」の発音に近いだろうか? 「te lang pu」の方は、元の子音がより忠実に残されているように見えるが、3音節もあり、元の1音節からはだいぶ長くなってしまってる。一方「chuan pu」の方は、より短い2音節であるものの、元の発音にはない「ch」という子音がある。

中国語名としてどちらが正式なのか、また、どちらが好まれているのかは、少し調べた限りでは私にはわかりかねる。voaでは「川普」が好んで使われているようだが、百度新聞では「特朗普」、「川普」が共に使われている。Wikipediaでは項目名において「川普」、「出生」の欄で「特朗普」が使われている。いずれにせよ、どちらの表記も浸透しているのは確かなようだ。


固有名詞に限らず、一般にことばを借用する時、もう少し正確には、言語Aの語Xを言語Bに音訳するとき、Xは、言語Bの音韻体系に従って多少の改変が行われる。

「トランプ」の例で考えてみよう。(アメリカ)英語における「トランプ」の発音のIPAで表すと、(方言さや厳密さは抜きにして)/trʌmp/となる。「子音・子音・母音・子音・子音」という音の連続である。しかし、中国語(普通話)において、/tr/、/mp/という子音の連続や、音節の最後に/m/や/p/が現れるようなことはあってはならない。つまり、中国語の音韻のルールに違反している。そのため、中国語の音韻規則にあわせて、音が挿入、消去、置換されたりするのだ。

「te lang pu」の場合、/t/のあとに母音を挿入し、/r/を音の近い/l/に換え、/p/の後にまた母音を挿入するなどしている。(もちろん、音韻以外に「漢字の意味」も忘れてはならない重要なファクターだが、ここでの趣旨と関係がないので考えないことにする。)


問題は「川普(chuān pǔ)」である。

/trʌmp/の頭の/tr/が、ピンインの[ch](日本語のチュに近い)に変わっている。実はこれ、英語側の音声学的なカラクリがあって、中国語話者には「チュ」のように聞こえるのである。

専門的には「摩擦化」という現象で、(もちろん方言にもよるが)英語の/t/や/d/に続く/r/は、そろぞれ「チュ」や「ヂュ」に似た音として発声されるのである。(参照

例えば「try」、「drink」、「country」、などは、実際「チャイ」、「ヂンク」、「カンチュイ」のように発音される。(機会があったら、耳を澄ましてきいてみると良い。日本人もそうやって発音すると、ネイティブっぽくなる。)

同様に、/trʌmp/も「トランプ」ではなく「チャンプ」のように発音され、/tr/の子音連続を持たない中国人には「チュ」の類の音に聞こえるというわけである。

私も、上海に旅行した時、ホステルの女性が「train」と言う単語をほとんど「チャイン」と発音していたのをよく覚えている。

上海の新古本屋

それに加え、「川普」という名前が浸透したのも、2音節という長さにカギがある。周知の通り、大半の人名が2音節である中国人にとっては、2音節というのは「座りのいい」リズムなのである。新聞の見出しや格言、キャッチフレーズに四字熟語を多用する中国語において、2音節の言葉はとても都合がいい。例えば「川普赢了(トランプが勝った)」というハッシュタグがweiboを賑やかしているが、「特朗普赢了」ではリズム的に間が抜けているというわけである。

英語側の摩擦化という音声現象と、中国語側の「2音節嗜好」という、2つの要因が互いに作用した結果が、「川普」という訳語なのである。